226 別離
「……コトラは、そっちに残るの?」
妻が問いかけると、コトラはもう一度鳴いた。
妻は寂しそうな顔をしたが、しゃがみこんでそっと手を広げる。
「わかった。……でも、最後に抱きしめてもいい?」
コトラは妻の言葉を聞いて立ち上がり、妻の腕の中に飛び込んだ。
妻はコトラの丸い背中を優しくなでながら「柚乃のこと、守ってあげてね」と囁いた。
コトラは「わかった」とでもいうように、もう一度鳴き声をあげる。
そして妻の腕から飛び降り、娘のもとに戻るのかと思ったら、なぜか俺の足元に寄って来た。
ダメもとで抱き上げようと手を伸ばすと、コトラは抵抗することなく俺の腕の中におさまった。
普段は触らせてもくれないのに、こんなときだけ。
そう思いつつも、ずっしりとしたコトラの重みが心地いい。
しかし、背中を撫でようと伸ばした手は、尻尾ではたき落されてしまった。
そのままコトラはするりと俺の腕から零れ落ち、娘のもとへ戻っていく。
唖然とする俺と、明らかに笑いを堪えている面々。
俺はいっそ思い切り笑ってくれと思いつつ、苦笑した。
娘はコトラを抱き上げ「本当にいいの?」と訊ねる。
コトラが肯定するように鳴くと、娘はうれしそうに笑った。
扉の輝きが増し、いよいよ別れのときが近づいていることを実感する。
またいつでも会いに行けるとわかっていても、名残惜しい。
俺は妻といっしょに、娘をそっと抱きしめた。
娘が抱いているコトラもいっしょに。
コトラは尻尾を揺らしながら、娘の腕の中で大人しくしている。
「また、会いに行くからな」
「困ったことがあれば、いつでも帰ってきなさい」
俺と妻が言うと、娘は確かに頷いた。
そっと娘を離し、扉から離れる。
「パパもママも、おばあちゃんも……元気でいてね」
そう微笑む娘が、扉の中に消えていく。
扉が閉まる寸前、娘の肩を支える魔王と目が合った。
そのポジションは俺のものだったはずなのにと悔しく思いつつも、あとは任せてほしいと雄弁に語る瞳が心強い。
ふっと扉が消えた先には、ベランダに続く掃き出し窓があるだけだった。
ぼんやりと窓を開け、ベランダから街並みを見下ろす。
今まで過ごしてきた異世界が夢だったかのような、見慣れた風景だ。
しかし、俺の隣で興味深げに階下の景色を楽しむノアの姿が、夢ではなかったことを証明している。
「あれ?そういえば、サミューとロズは?」
あたりを見渡して問いかける。
ふたりの姿はどこにも見当たらない。
ノアはあっけらかんとして「おいてきたよ」と答えた。
俺は思いがけない返事に、一瞬固まった。
「そ、それは……よかったのか?」
「うん。いくら反省しているとは言え、あの神は大罪を犯したわけだしね。制裁は与えたけど、さすがに放置ってわけにはいかないから、しばらくは監視下に置く必要があるんだ。それに、二人がいれば柚乃ちゃんの様子も把握しやすいし、一石二鳥でしょ?」
「それはそうかもしれないが……なんだか申し訳ないな」
「仕事なんだから気にしない」
そういって、へらっとノアが笑う。
そして「ほかに質問は?」と冗談めいて問いかけた。
俺はせっかくだからと、気になっていたことをいくつか質問することにした。
「鍵についてなんだが」
「うん」
「鍵を使えるのは、所有者だけなんだろ?」
「うん、そうだね」
「じゃあ、鍵の所有権を譲渡することはできるのか?」
ノアは首を振って「それはできないよ」と答えた。
あくまで鍵の所有は特例であり、俺たちの死後は回収することになっているようだ。
「じゃあ、世界を渡れるのも所有者だけなのか?」
「いや、君たちがともに世界を渡りたいと望む相手は、いっしょに移動することができる。詩織ちゃんのお母さんとかね。でも、悪意を持っている人物は弾かれるから注意した方がいいよ」
「悪意があるかどうかの判断って……?」
「双方、あるいはどちらかの世界に多大な影響を及ぼす可能性のある思考を持っているかどうか、かな。鍵が自動で判断するから、あまり難しく考えなくていいよ。でも、これは所有者にも適用されるからね。君たちなら大丈夫だと思うけど、めったな考えは起こさないように」
俺は頷き、質問を続ける。
「物の持ち込みは?こっちの世界のものを向こうにもっていったり、逆に持ってきたりとか」
「そうだね……飛躍的な技術改革につながりそうなものはダメかな。それ以外は基本的に大丈夫。持ち込めないものは扉で弾かれるから、判断が難しい物は試しに扉を通してみてもいいんじゃないかな」
「なるほど」
「故郷の食べ物とかもっていってあげると、柚乃ちゃんも喜ぶだろうしね」
そんなノアの言葉に、どんなものを喜ぶだろうかと少し心が弾んだ。
次に娘のもとを訪れるときは、娘とコトラの好物をたくさん用意してやろう。
そう思うと、娘と別れた寂しさが少し和らぐような気がした。