210 侵攻
ノアから与えられた予想外のご褒美に、俺も妻もぽかんとしたまま固まっていた。
二つの世界を行き来できる力。
そんなもの、喉から手が出るほど欲しいに決まっている。
しかしそんな人知を超える力が手に入るなんて、ありえないと思っていた。
だから、覚悟を決めるのに苦労したのだ。
愛する娘と金輪際会えない、そんな胸を引き裂かれるような覚悟を。
でも、諦めなくていいとノアが言う。
元の世界へ戻っても、娘に会えると。
鍵は2つ。
俺と妻がひとつ、娘がひとつ持つことで、互いに望んだタイミングで世界を行き来できるというのは、なんてありがたいのだろう。
困ったことがあればいつでもおいで、そう娘に言ってやれることがどれだけ嬉しいことか。
黙りこくったままの俺たちを、ノアが仕方なさそうな顔で優しく抱きしめた。
小さい腕なのに、なんて包容力だろう。
視界は涙でひどく歪んでいて、きっと俺は情けない顔をしているんだと思う。
それでも嬉しくて、ただ嬉しくて、俺も妻も子どものように泣いた。
2人とも本当に泣き虫だね、というノアの声がくすぐったい。
俺は心底、ノアを信じてついてきてよかったと思わずにはいられなかった。
※
この世界に来て、何度号泣したことか。
年甲斐もなく醜態を晒したことを恥ずかしく思いながらも、俺は涙のあとをゴシゴシと拭った。
そして妻と顔を見合わせて微笑み合う。
娘にも鍵の話を早く伝えてやりたいが、向こうの話はどうなったのだろう?
ドアを小さく開けて、居間の様子を窺う。
娘と魔王はまだ話の最中だと思っていたが、すでに終わったのか揃ってアリーと何やら話し込んでいた。
俺の視線に気づいた娘が、こちらを向いてぎょっとした顔をする。
そしてすぐに駆け寄ってきた。
「パパ、大丈夫?!あいつにいじめられたの?」
泣き腫らした顔を見て心配してくれたのだろう。
神をあいつ呼ばわりしてもいいのか悩むところだが、被害者という立場からすると仕方ないのかもしれない。
「大丈夫。これはちょっと……別件で」
「別件?」
「あとで話すよ。……ところで、何かあったのか?」
暗い顔をしている魔王とアリーに視線を移し、問いかける。
談笑しているのかと思ったが、どうにも重苦しい雰囲気だ。
ただ事ではないだろう。
娘が顔を曇らせて「実は……」と事情を説明してくれた。
何でも火急の伝令が届いたそうだ。
内容は「勇者の侵攻」だという。
「勇者……ってこの世界の人間だよな?」
「そう。勇者パーティーが国の有力騎士を何人か引き連れて、魔王領に進軍してきたの。軍と言っても少数精鋭で、数は10から20程度だろうって」
「それなら、そこまで脅威にはならないんじゃないのか?」
以前ノアに聞いた話を思い返す。
確か勇者パーティーはそれなりに強く、下級魔族にとっては脅威的な存在だ。
加えて最近聖剣も手にして、より力を増しているという。
しかし力を増したからと言って、魔王軍からすると大したことはないはずだ。
魔王はおろか、その側近にも手が出ないという話だった。
「たしかに、勇者の力自体はそこまで強くない。でも、隠密の魔法を使っているのか所在がまったく掴めなくて、気づかぬうちに攻撃を受ける者が続出しているみたい」
「……被害状況は?」
「ほとんどは軽症。かすり傷程度ね。でも子どもやお年寄りを中心に、重症者も出てる。死者はまだ出ていないけど、このままだと時間の問題かも」
すでに高位魔族が対応に向かっているそうだが、隠密の効果が予想外に高く、勇者捜索は難航しているらしい。
周辺地域では、被害拡大を防ぐため、力の弱いものは結界を張った建物の中に避難させているという。
しかし姿を見せない勇者に、結界を突破する手段がないとは言い切れない。
そのため、早急な解決に向けて話し合いをしていたのだそうだ。
「方針は決まったのか?」
「アークが出るって」
「魔王自ら?!」
「うん……。向こうの魔法レベルがわからないから、絶対見抜けるであろう自分が行くって聞かなくて」
妻によく似た困り顔で、娘が言う。
なんともフットワークの軽い魔王だと感心してしまった。
一国の主が早々城を開けていいものなのかとも思ったが、魔族の国では考え方が違うのか、アリーもとくに止める素振りは見せていない。