198 憎悪
妻から渾身のビンタを食らった神は、しばし茫然としていた。
部屋の中は静まり返り、妻の荒い呼吸だけが響く。
長いようで短い間のあと、我に返った神が『なにを……』と漏らしたとき、妻が大声で怒鳴りつけた。
「何をじゃない!さっきから黙って聞いていれば、あなた自分のことしか考えられないの!?大体、魔王くんってすごくいい子じゃない!あの子が他人を犠牲にして得たものを喜ぶような子じゃないことぐらい、あなたが一番よくわかっているんじゃないの?」
『……戯言を……』
「戯言じゃないでしょ!うちの娘とあなたの息子、どちらかだけじゃない。どっちも幸せになれる方法をいっしょに探してあげるのが親の務めってものでしょうが!!」
きっぱりと言ってのけた妻も、神は唖然とした顔で見ていた。
そして少しまごつきながらも、ようやく口を開こうとしたそのとき、小さな物音が扉の方から聞こえてきた。
皆が一斉に扉に視線を向けると、魔王が硬直して佇んでいた。
状況の理解に時間がかかっているらしい。
「これは……一体……」
ぼそりとつぶやいた魔王が、室内を見渡す。
そして俺と組み合っている見知らぬ男に目を止めた。
彼が自分に似ていることで、おおよその事態が飲み込めたらしい。
魔王は殺気のこもった瞳で神を睨みつけ、小声で詠唱を始めた。
この世界の魔法になじみの薄い俺には何の魔法なのかわからなかったが、青ざめた顔をした娘が魔王に飛びつく。
魔王は「下がっていろ」と娘に言った。
しかし娘は頑なに拒否して、涙ながらに訴える。
「絶対にダメだよ!そんなことしたら、一生後悔することになる……!!」
しかし魔王は詠唱をやめない。
そんな魔王を見る神の表情は、どこか寂し気だ。
「ユノもあいつが許せないだろう?ユノの人生を、ユノの両親を傷つけたのはあいつだ」
「……それでも!お父さんはアークを愛しているだけなの!アークのことで頭がいっぱいで、どうしようもなくなってるだけ……!パパとママに手を出そうとしたのは許せない。……でも、親子で争ってほしいなんて思わない!!」
魔王は困惑した表情をしたが、それでも魔法の発動は止まらない。
隠し部屋にも魔法陣が仕組まれていたらしく、床に文様が浮かび上がっている。
どういう魔法なのかはわからないが、魔法陣の大きさと詠唱の長さから想像する限り、相当強い魔法だということはわかった。
「……魔法をとめろ!」
気づくと俺は声を上げていた。
魔王と神が驚愕の目で俺を見ている。
正直、神がどうなろうと俺には関係ない。
そう切り捨ててしまいたい気持ちはある。
恨みや怒りなんてものは、そうやすやすと消せるものではない。
それにきっと神には、魔王の魔法は効かないだろう。
神というのは、それほど別格の存在なのだ。
しかしそれでも、息子から憎悪の攻撃を受けるというのは耐え難いことだと思う。
愛情深い父親なら、なおさら。
『……下手な同情はいらん』
吐き捨てるように神が言う。
俺は神を睨みつけながら「お前のためじゃない」と答えた。
「事情もよくわからないまま、父親を攻撃せざるを得ない状況は彼にとって不条理だ。それになにより、うちの娘をこれ以上泣かせたくない」
最後のセリフは、魔王を見据えて口にした。
魔王は娘に視線を向けたあと、苦渋の顔をしてから魔法の発動を止める。
神はうろたえながらも、魔王の視線がそれた隙を見計らって、再び蛇の姿に変化した。
そのまま俺の手をすり抜け、部屋から逃げ出そうとする。
しかし、瞬時にサミューがその身体を押さえつけるようにして捕まえた。
サミューの手から逃れようともがく神に、ロズが網のようなものを投げつける。
網が神にあたる寸前、サミューは素早く神から手を放し、一歩下がった。
神に触れた網は、檻の形になって神を拘束する。
檻の隙間が大きく開いているのが気になったが、網には見えない壁が張り巡らされているのか、神が逃げ出すことは叶わなかった。