194 内緒話
その日の夜、魔王が隠し部屋を訪れた。
すでに娘も妻も寝静まっていて、俺はノアとアリーとのんびり酒を飲みながら雑談をしているところだった。
再会してからの娘は寝るのが早く、夕食を済ませて少ししたら部屋に戻ってしまう。
妻の希望で娘と妻は同室で眠っているのだが、本当にすぐに眠っているらしい。
異世界へ来てから、娘の生活スタイルはずいぶん健康的に変わったようだ。
元の世界でもそこまで夜更かしをする方ではなかったが、まるで今は小学生の子どもくらいの就寝時間だ。
しかし、だからといって起きるのが早いわけでもない。
昼前まで眠っていることもあり、一度心配になって「大丈夫か?」と問いかけたが、体調に異変があるわけではないという。
異世界の生活でたまっていた疲れが、俺たちと再会したことで出てしまったのかもしれないと、しばらくは様子を見ることにした。
「夜分に失礼」
少し困った顔で、魔王が言う。
気にしないでいいと答え、魔王にも酒を勧める。
普段はまだ仕事が入っているとかで断られるのだが、その日の彼は頷いて俺の向かいの席に腰かけた。
アリーが驚きつつも、魔王に果実酒の入ったグラスを渡す。
魔王はそれを一口飲んで、まっすぐ俺を見据えた。
「イツキ殿に話したいことがあるのだが……酒の入っていないときの方がいいだろうか?」
「……いや、あまり吞んでいないから大丈夫だ。大事な話なら、別室に移動するか?」
魔王は少し考えるそぶりを見せた後、首を縦に振った。
俺はそれを確認し、寝室として使っている個室へ魔王を案内する。
寝室といっても、なかにはテーブルも椅子もあるし、ゆっくり話せるだろう。
「シオリ殿は……」
「柚乃ともう眠っている。……ふたりも起こすか?」
「いや……ユノには内密にしてもらいたい話なのだ。シオリ殿には、後日改めて話をする機会を作ってもらえると助かる」
娘には内緒の大事な話。
なんとも不穏な気配がする。
そう思いつつ、俺はグラスに残った酒を一気に飲み干した。
魔王の指示でアリーは先ほどまでくつろいでいたリビングに残ったが、ノアは護衛のためだとついてきた。
ちなみに、娘と妻の部屋にはサミューが控えている。
「それで、話というのは?」
「先日ノア殿から聞いた、この世界の神と我、そしてユノについてだ」
まあ、それ以外はないだろうな。
予想通りの返答に、俺はため息をついた。
魔王としては、自分の命がかかっている話だ。
正直、娘を連れ帰らないよう説得しにくるとは思っていたが、実際に話を切り出されるとなると冷静でいられる気がしない。
しかし、魔王の口から出た言葉は、俺の想像の真逆のものだった。
「今まで、あなた方家族を引き裂いてしまったこと、心よりお詫びする。……俺は、ユノを元の世界へ返してやりたいと思っている」
「……なっ」
「だがおそらくユノは、先日の話をきいて俺を見捨ててはいけないだろう。だからイツキ殿たちに協力を頼みたいのだ」
真剣なまなざしの魔王に、先ほどまで斜に構えていた自分が恥ずかしくなる。
俺は戸惑ったまま「待て待て待て待て」と魔王の話をさえぎって頭を抱えた。
そして大きく深呼吸をして、魔王に問いかける。
「この前、ちゃんとノアの話を聞いていたよな?」
「ああ」
「柚乃がいなくなると、ずっと苦しめられていた頭痛が再発するぞ?それに、いつかは力が暴走して死に至るって」
「理解している」
そう言った魔王は、寂し気に微笑んだ。
そして「ユノには感謝している」という。
「ユノと過ごした時間は、かけがえのないものだった。頭痛にさいなまれない日常は穏やかだったし、まばゆい光のようなユノのそばは心地が良かった。俺は絶対的な力を持っているが、他の者とは一線を画す魔王として、常に畏怖の対象でしかなかった。……だがユノは、そんな境界など初めからなかったように、魔王としてではなく一個人として俺を見てくれた」
「……なら、もっと手元に置いておきたくなるものじゃないか?」
「……だが、それはユノの幸せにはならない」
きっぱりと言い切った魔王の瞳には、確かな決意を感じる。
「ここに来たばかりのころ、熱にうなされながらユノは何度も両親を呼んでいた。そして先日、イツキ殿とシオリ殿に再会して泣き崩れた姿を見て、思い知ったのだ。ユノの幸福に、家族の存在は欠かせないのだと」
そして魔王は、ぐっと眉間にしわを寄せ、拳を握りしめた。
「ユノの転移が、俺のために神が仕組んたものだと知ったときは、自身の罪深さに絶望した。ユノを苦しめていたのが俺自身だったなんて、信じたくはなかった」
魔王は俺に視線を向け、表情を和らげる。
そして「せめてもの罪滅ぼしなのだ」といった。
「ユノには幸せになってもらいたい。家族と離れることなく、平和で慣れ親しんだ世界で。……だが、このままでは彼女の心に傷を残してしまいかねない。だからイツキ殿たちに、いっしょに嘘をついてもらいたいのだ。ユノがいなくても、俺が生きていける方法が見つかったと」
「……どうして、そこまで……」
「俺は、ユノを心から愛している。それだけだ」
そうして魔王が深々と俺に頭を下げた。
彼の表情は見えなかったが「知らなかったこととはいえ、父が勝手なことをして申し訳ない」と話す彼の声は、少しだけ震えているような気がした。