193 読書
それからどれだけの時間がたっただろう。
部屋には時計がなかったので、正確な時間はわからないが、しばらく経ったころに娘が部屋から顔を出した。
その目が真っ赤に腫れていて、俺は慌てて娘に駆け寄った。
娘のそばでおろおろする俺を押しのけ、妻がいつの間にか濡らしてきたらしいタオルを娘に手渡す。
娘はそれを受け取って、自身の瞼に押し付けた。
「……冷たくて気持ちいい」
少しかすれた声で、娘が言う。
妻はそんな娘の背中を優しくさすり、近くの椅子に座らせた。
相変わらずあたふたするだけの俺を娘がタオルの下からチラリとみて、軽く吹き出す。
「パパ、慌てすぎ。さっきまでいっしょに散々泣いたじゃん」
「いやまあ、それはそうだけど」
「変なの」
そう言いつつも、娘は楽しそうだった。
妻も「それだけ笑えるなら大丈夫ね」と呆れたように笑った。
娘は口元に笑みを浮かべたまま、タオルを目元に押し付け続ける。
そしてぼそりとつぶやいた。
「……もし、私が帰らないって言ったら……怒る?」
その声はわずかに震えていて、娘が勇気を振り絞って口にした言葉だとよくわかった。
妻は俺に視線を向け、小さく頷いた。
任せてくれるという意味だろう。
俺は落ち着いた声で話すよう意識して、娘に問いかけた。
「柚乃が帰ったら、彼が死んでしまうって知ったから?」
娘は答えなかったが、その無言が肯定を示していることは明らかだった。
それでも、世界を越えてまで迎えに来た両親を無下にもできず、思い悩んでいるのだろう。
「彼の問題についても、ノアの部下が調べてくれている。結論を出すのは、それからでもいいんじゃないか?」
「……うん。でも……」
「でも?」
娘は口をきゅっと結び、小さく首を振った。
そして「なんでもない」と力なく笑う。
見るからに何かあるのは明らかなのに、その表情があまりに悲し気で、それ以上追及することはできなかった。
「……わかった。でもどんな小さなことでも、話したいことがあればいつでも話してくれ」
俺がそう答えると、娘は確かに頷いた。
※
それから数日。
何の進展もないまま、時間だけが過ぎていった。
ロズはまだ戻らないし、魔王も仕事が忙しいようだ。
それでも魔王は、毎日一度は俺たちの様子を見に来る。
隠し部屋に閉じこもるだけの生活は堪えるかと思ったが、アリーが差し入れてくれる本を読んでいるとあっという間に時間が過ぎた。
魔族領は出版業界が発達しているようで、実用書から物語まで多数の書籍が販売されているという。
印刷技術が確立しているのかと驚いたが、一冊の本を魔法で複製して販売しているらしい。
そのため、本によって筆跡が異なるのがまた面白い。
悪筆の著者の本は、出版社の者が代筆しているそうだが。
初めのうちは魔族領の文化や歴史書なんかを読んでいたが、最近はもっぱら小説ばかり読んでいる。
魔族領では下剋上ものが人気なようで、下級魔族の成り上がり小説が多い印象だ。
単にアリーの趣味かもしれないけど。
力のない主人公がさまざまな苦難を乗り越えて成長していくストーリーは、王道の少年漫画のようで素直に面白い。
妻は魔族領の観光や料理の本をよく眺めていて、娘は恋愛小説を読んでいる。
魔族の恋愛ってどんなものだろうかと俺も一度手にとってみたが、魔族の貴公子に見初められた平凡な少女の恋物語は普通にぐっときた。
身分差の恋の切なさ、身を引こうとした主人公を引き留める頼もしい貴公子。
ただ恋愛モノを読んでいると、どうしても思考の片隅に魔王と娘のことがチラついてしまうので、それ以降は違うものばかり読んでいる。