192 これからのこと
重苦しい空気に耐えかねたのか、魔王が「少し一人で考える時間が欲しい」と隠し部屋を出て行った。
引き留める者はいなかった。
暗い顔をした娘も、気分を落ち着けたいからと個室にこもっている。
娘の護衛には、サミューと魔族の女性騎士がついていてくれるそうだ。
コトラも娘に抱かれたまま、個室に連れられて行った。
アリーがお茶を淹れてくれ、俺と妻とノアはテーブルを囲んで椅子に腰かけた。
アリーは俺たちの監視や護衛を兼ねているのだろう、退室こそはしなかったが、気を使って部屋の端の距離のある場所で待機してくれている。
「……詩織。記憶、戻ったのか?」
ポツリと妻に問いかける。
妻は困ったように笑い「そうね」と答えた。
「あなたには、迷惑をかたわね」
「いや。昔に戻ったみたいで、楽しかったよ」
「そう……」
妻の話では、娘に会った瞬間、頭がすっきりとクリアになる感覚がしたのだという。
そうして気が付くと、大人の自分が戻ってきていたのだそうだ。
「まだ少し、夢を見ているような感覚ではあるけどね」
「夢か……」
「夢だったらよかったのに。……全部、はじめから」
はじめからというのは「娘の異世界転移」を指すのだろうか?
それとも、娘が「異世界から転移してきたこと」を指すのか。
わからなかったが、妻の言わんとすることは理解できた。
「娘が生まれる前から、異世界転移が始まってたなんてなぁ」
口にするだけで、まだ涙がにじむ。
「それでも……」
「ああ、それでも柚乃は俺たちの娘だ。それだけは、間違いない」
俺が断言すると、妻はほっとしたように頷いた。
そしてノアに向かって、夫婦でそろって頭を下げる。
「娘のところへ連れてきてくれて、ありがとう」
「柚乃にもう一度会えたのは、ノアくんのおかげよ。ありがとう」
ノアは戸惑った顔をして、目を伏せた。
そして眉間にしわを寄せて、絞り出すように言った。
「……僕は、君たちをだましていたんだよ?」
それでも感謝していると告げると、ノアはぐっと唇をかみしめた。
少年らしい表情に俺たちが思わず笑うと、ノアも小さく微笑んだ。
そして気合を入れるように、パチンと頬を叩いた。
「よし!話も終わったことだし、これからのことをいっしょに考えようか?本当は、柚乃ちゃんやアークヴェルドくんとも話した方がいいんだろうけど、今は気持ちの整理がつかないだろうからね」
確かに、自分が神の子だと聞かされて、冷静でいられるとは思えない。
娘にしても、知らぬうちに異世界へ転移していたといわれても、なかなか受け入れられるものではないだろう。
加えて魔王は娘と離れるとやがて命を落とす運命だなんて、信じがたいはずだ。
この世界の神が危険なのは十分理解している。
しかしそれは、娘にとってではない。
娘を取り戻そうとする俺と妻に対する話だ。
妻を危険に晒したくはないが、混乱した状態の娘を有無を言わさず連れ帰ってもいいとは思えない。
まして認めたくはないが、娘と魔王の親密そうな様子を見ていたら、なおさら。
妻に視線を向けると、妻は穏やかな表情で頷いた。
とうに覚悟は決まっていたのだろう。
こういうところを見ると、やはり「母は強し」と思わずにいられない。
「今すぐ家族で元の世界へ戻りたいのはやまやまだけど、娘の気持ちが落ち着くまで待つことにするよ」
「今はこうして、娘のそばにいられるもの。行方の知れない娘を探し続けるくらいなら、多少危険を伴ってでも、娘が心を決めるまでともにいたいわ。……でも、あなたが危ない目に遭うのはもうごめんよ。無理をするなら、ノアくんにあなただけ先に連れ帰ってもらいますからね!」
じろりと妻が俺を睨み、俺は苦笑いで答えた。
ノアは「お母さんの詩織ちゃんは強いね」とくすくす笑う。
妻はふいっと顔をそらし「子どもだったころの私は忘れて」とぶっきらぼうに言った。
明らかな照れ隠しだ。
妻の記憶が戻ったことをうれしく思いながらも、幼い言動の妻もかわいかったなと少し寂しく思う。
妻に言うと怒られるかもしれないが、俺はやはりどんな妻でも愛しいのだ。
「ところで、あの魔王だが……」
「柚乃との関係が気になる?」
「きっ……気にならないと言ったらうそになるが、そうじゃなくて……」
しどろもどろになりながらもごまかし、俺はノアに問いかけた。
「柚乃がいないと死んでしまうっていうのは、どうにもならないことなのか?ほかに解決法とか……」
ノアは難しい顔をして首を横に振る。
「今の段階では何とも。あまり前例がないことだからね」
「ほかの神も、自分の創った世界の者と子どもを作ったことが?」
「あるにはある。でも、出産前に流れてしまうことがほとんどだよ。あるいは、幼少期に命を落とすか。だからアークヴァルドくんは、相当運がよかったといえるね」
俺の呪いの件とともに、魔王の魔力暴走についてもロズに情報収集を頼んでいるのだとノアが言う。
俺は「ありがとう」と答え、ため息をついた。
正直、話の情報量の多さに頭がパンクしそうだった。