185 絶体絶命
妻が振り向いて駆け出し、扉を開こうとする。
しかし何らかの魔法が使われているのか、扉はびくともしない。
おぞましい姿の神が少しずつ近づいてきて、俺たちはじりじりと追い詰められていく。
「あれは一体何なの……っ」
血の気の引いた顔で、娘がつぶやく。
俺は短く「この世界の神だ」と答えた。
「どうして神様があんな……」
「柚乃をこの世界へ連れてきたのは、神だろう?だからか、柚乃を取り戻そうとする俺たちを狙っているんだ」
「そんな……っ!」
茫然と娘が言う。
納得できない気持ちは理解できるが、今はそれどころではない。
圧倒的な力の差があるのは、戦わなくても感覚で痛いほどわかる。
だからといって、娘を諦めるつもりは毛頭ない。
どうすればこの状況を打破できる?
必死で思考を巡らせながら、俺たちはどんどん追い詰められていた。
『ころしてやる。ころしてやる。そのむすめはぜったいにわたさない』
「……なんで柚乃じゃなきゃいけないんだ!異世界の人間が必要なら、俺が代わりになる!だから娘と妻は見逃してくれ!!」
「ちょ、パパ……!」
とっさに叫んだ俺に、娘が非難の声をあげる。
しかし俺は自分の提案に後悔はなかった。
家族を犠牲にするくらいなら、自分が身代わりになる方がよっぽどましだ。
「それなら私にしなさい!」
続けて叫んだのは、妻だった。
異世界に来てからのあどけない話し方ではない。
元の世界の、普段通りの妻の口調だ。
「私なら娘によく似ているから、代わりにうってつけでしょ!うちの娘をこれ以上傷つけることは、絶対に許さない!」
妻が差し出した手のひらから、灼熱の炎が現れる。
妻は俺たちの前に飛び出て、炎を思い切り神に向かってぶつけた。
しかし激しい業火は、大きく開いた神の口の中に消えてしまった。
この程度の魔法では、やはりまったくダメージを与えることはできない。
わかってはいても、実際に目の当たりにするとショックが大きいものだ。
そのとき、ふと猫の鳴き声が聞こえた気がした。
コトラの姿が浮かんだのもつかの間、神の身体に噛みつく黒猫の姿を見た。
「コトラ!?」
娘が叫ぶ。
庭園ではぐれたコトラは、ずっと部屋の近くに身を潜めていたらしい。
娘と再会したあと、ノアたちに連れてきてもらおうと思ったが、拒否されたと聞いた。
もしかしたら、何か不穏な気配を感じて周囲を探っていてくれたのかもしれない。
不意を突かれたのか、神が咆哮のような悲鳴を上げて、その身を激しくよじらせた。
反動でコトラが吹き飛ばされたのを、かろうじて受け止めて倒れこむ。
『……イツキくん?何かあったのか?』
倒れた音を聞きつけたのか、扉がそっと開いた。
さっきまで何度叫んでも聞こえなかったのになぜ、と不思議に思ったが、さきほどのコトラの攻撃で魔法が解けたのかもしれない。
俺は「助けてくれ!」と叫んだ。
サミューとロズが荒れ果てた室内に驚き、慌てて飛び込んでくる。
いまだ苦しむ神に向かい、どこからか取り出した剣を突きつけた。
『おとなしく投降しろ!』
『抵抗するなら容赦はしない!』
神はブルブルと身を震わせた。
怒りに打ち震えているのは、火を見るより明らかだった。
『かんしょうするな。でていけでていけでていけ……!!』
神は全身から棘のようなものを生やし、こちらに向けて一斉に飛ばしてきた。
しかしそれらはすべて、サミューとロズによって撃ち落される。
先ほどまでは圧倒的な強者としてこの部屋に君臨していた神だが、サミューとロズには手も足もでないようだ。
その力の差に俺はほっとして、一瞬気を抜いてしまった。
そうして油断してしまったせいで、派手な棘に隠れて、地面を静かに這って近づいてきた細長い触手のようなものに気付いたのは、それが俺の足に絡みついたあとのことだった。
とっさに振り払おうとしたが、それは神から分離し、俺の足に絡みついたまま痣へと変化した。
痛みはまったくなかったが、呪われたのだと直感でわかった。
ぱっと顔を上げて神を見る。
神は愕然とする俺の姿にけたたましい笑い声をあげ、塵となって消えていった。