20 別れの夜
帰宅した俺を、妻も義母もいつも通り迎えてくれた。
部屋の中には、夕飯の良い香りが漂っている。
「さっさとお風呂に入っちゃいなさい。」
義母に促され、浴室に向かう。
次はいつ、こうして風呂にゆっくりと入れるかわからない。
ゆったりと湯船に浸かり、身体を温めながら、これからのことを考える。
細かいところまで目を通す時間は取れなかったが、勇司くんに勧められた科学本には一通り目を通した。
こんなことなら、普段からもっと実用書なんかも読んでおけばよかったな。
そう後悔しつつも、あとはなるようになるだろうと、楽観的な心境だった。
風呂を済ませてリビングに向かうと、食卓にはところ狭しと料理が並んでいる。
「こんなに、どうしたんですか?」
驚いて俺が訊ねると、「しばらくお別れになるかもしれないから、ついね。」と義母がいたずらっぽく笑った。
俺や詩織の好物ばかり並んでいる光景に、義母の愛情を感じる。
ありがとうございます、とお礼を告げ、食事の時間を楽しんだ。
俺と同様、義母も暗い話題を避けているようだった。
妻も料理を手伝ったことを嬉しそうに語り、褒めてやると飛び切りの笑顔を見せる。
そんな明るい食卓の中、ぽっかりと空いた椅子が際立っている。
柚乃がここにいたら、ひときわ喜んでごちそうを頬張っていたことだろう。
在りし日の日常に思いを馳せるとともに、俺は娘を取り戻すための決意を新たにした。
※
「それで、いつごろ迎えが来るのかしら?」
義母が問いかけたが、「明日の夜」としか告げられておらず、正確な時間はわからない。
もしかしたら、昨日の夢のように眠っているあいだに異世界へ渡航する可能性もある。
そわそわと落ち着かない気持ちでいると、妻がそっと俺の手を握った。
「詩織がいっしょにいるからね、大丈夫だよ。」
にっこり微笑む彼女がいじらしく、心が少し軽くなる。
そのときだった。
ピンポーン、とチャイムの音が静かな部屋に響き渡った。
恐る恐るインターフォンの通話ボタンに手を伸ばす。
画面に映った少年は、不敵な笑みを浮かべていた。
「こんばんは、伊月くん、詩織ちゃん。お部屋に入れてもらえるかな?」
言われるがまま、エントランスのオートロックを解除する。
それからしばらくすると、次は玄関のチャイムが鳴った。
扉を開けると、少年が月夜に照らされて立っていた。
「お邪魔します。」
礼儀正しく、少年が軽く頭を下げる。
こうしてみると、いいところのお坊ちゃんみたいだ。
少年は部屋を見渡して、「ここはいいところだね。」と言った。
大して広くもない、生活感の溢れる部屋だが、少年の表情を見るにお世辞で言っているわけではなさそうだ。
素直に受け止め、「ありがとう。」と返す。
「詩織ちゃんのお母さんとは、初めましてだね。」
義母に向き直り、少年が言った。
義母がとっさに身構えたのがわかった。
「そんなに怖がらないでよ。…伊月くんと詩織ちゃんのことは、僕に任せて。」
そう話す少年の足元に、コトラが擦り寄る。
妻と娘以外には懐かない猫なのに、どうやら少年のことは警戒していないらしい。
コトラは俺にも懐かないのに……と少し悔しく思う。
少年はコトラをそっと抱き上げ、
「この子もね。」
と言った。
コトラはそれに応えるように、「にゃおーん。」と鳴き声を上げる。
「…………えっ?!」
少年の言葉に耳を疑う。
いま、彼はなんと言った?
「コトラもいっしょに行くの?!」
嬉しそうな声を上げたのは、妻だった。
義母の方を見ると、俺と同様に驚愕の表情をしていた。
同行者が複数いる可能性は考えていたが、まさかコトラだとは……。
いくら娘に懐いていたとはいえ、大丈夫なのだろうか?
俺のそんな考えを察してか、コトラが「フーッ!」とこちらを威嚇する。
そんな俺たちの様子をみて、少年がクスクス笑った。
「大丈夫、コトラは才能があるから。頼りになる同行者だよ。」
まっすぐ少年は言い切ったが、俺の胸の不安は膨らむばかりだった。