2 退行
あれから数日。
学校や警察にも相談したものの、娘は未だ見つからない。
あの日見た強烈な光のことも話したが、案の定信じてはもらえなかった。
むしろ意味のわからない発言をする俺に、警察は疑いを持ったようにも思える。
娘の失踪を自作自演する父親。
しかし娘はすでに父の手で……だなんて、笑えない冗談だ。
愛する娘を俺が手にかけたと思われるだなんて、怒りで手が震える。
警察は俺を訝しみながらも、思春期にありがちな家出だと結論付けたらしい。
ろくな捜査もせず、娘の交友関係をあたってみるよう助言するだけだった。
当然、知りうる限り娘の友人やアルバイト先、塾などにもすでに娘の行先を訊ねているが、誰ひとりそれを知るものはいなかった。
八方塞がりのこの状態で、一体どうすればいいのか。
「異世界転移、か。」
あの日からずっと浮かんでいる可能性に、切望的な気持ちになる。
魔法の存在を信じているわけではないし、ありえないとわかっている。
それでも、あの模様は魔法陣にしか見えなかったし、光に呑み込まれるように消えていく娘の姿を、俺も妻も確かに見た。
仮にこれが本当に異世界転移だったとしたら、娘が帰ってこれる可能性は限りなく低いのではないか。
異世界転生や異世界転移をテーマにした漫画を最近は好んでよく読んでいたが、元の世界に生還した作品は数える程度しかない。
よしんば転移先の世界を救ったとしても、元の世界には戻れず、転移先の世界で幸せに暮らしていくというストーリーがほとんどだ。
しかし、それではただの誘拐ではないか。
元の世界に戻せないという点では、よりたちが悪い。
「ただいま。」
娘の写真片手に、道行く人に娘の行き先を訪ねて歩き回ったが、有力な情報は得られないまま帰宅した。
玄関のドアを開けると、妻が笑顔で俺を出迎える。
「おかえり!」
明るく響く彼女の声が、俺の心に深く突き刺さった。
※
目の前で消える娘を見た妻は、動揺しながらも俺といっしょに娘の捜索に乗り出した。
しかし一向に足取りをつかめない中、俺が話した異世界転移の可能性に絶望し、泣き崩れてしまった。
同じように絶望に打ちひしがれていた俺は、そんな妻の様子に気を配ることができていなかった。
泣き疲れた妻はいつの間にか眠ってしまい、目を覚ますと、娘のことはもちろん6歳以降の記憶をすべて失ってしまっていた。
目を覚ました妻は、俺を怯えたような目で見つめ、「おじさん、だれ…?」と戸惑いの声を漏らした。
こんなときに冗談をいう妻ではない。
慌てて病院へ連れて行ったが、メンタククリニックは数か月前から予約が必要だと追い返されてしまった。
緊急事態だと引き下がったが、妻の健康に問題が見受けられないことや戸惑いながらも落ち着いていることから、緊迫した状況にはないと判断されたらしい。
予約を進められたが、そのまま家に引き返してきてしまった。
終始泣き出しそうな顔をしている妻だったが、手を引かれるまま、大人しく俺についてきてくれた。
自宅へ戻ると、妻の手を握ったまま、俺は電話をかけ始めた。
1コール目が鳴り止む前に、電話の相手の声が響く。
「見つかったの?!」
何が、というと、それはもちろん娘のことだろう。
いいえ、と悲痛な声で告げると、深いため息が返ってきた。
「娘の行方については何もわかっていませんが、新しい問題が…。お義母さんの力を貸して頂きたいのですが、これから伺ってもよろしいですか?」
「次は一体何が……。……わかったわ、詳しくは後で話しましょう。」
電話の主である妻の母は、そう言って電話を切った。
妻に向き合い、「今からお母さんに会いに行こう。」と、できるだけ優しい声で伝える。
「お母さん」というワードに少し表情を和らげた彼女は、小さく頷いた。
妻の実家は近く、歩いて15分ほどの距離にある。
妻と並んでゆっくりと足を進めながら、俺は義母にどう話をしようか思考を巡らせていた。
ピンポーン、と軽やかな音がなると、パタパタという忙しない足音とともに、玄関ドアが勢いよく開いた。
歳の割に若々しい印象だった義母だが、娘が失踪して数日のあいだで、年相応といった雰囲気に落ち着いてしまった。
心労をかけていることを申し訳なく思いながらも、重い口を開いた。
「お義母さん、実は……。」
「……お母さん?」
俺の言葉を遮るように呟いた妻は、戸惑いの表情で義母を見つめている。
無理もない。
彼女の記憶には、40年前の姿の義母しかいないはずだ。
しかし面影はあるのか、揺れる瞳は目の前の相手が本当に母親なのか判断しかねているようだ。
「詩織?あなた大丈夫?」
様子のおかしい妻を気遣うように、義母が声を掛ける。
どうやら娘が見つからないストレスで精神を病んでいるように思っているらしい。
間違ってはいないが、問題はより深刻である。
「医者の診断は受けていませんが、おそらく詩織さんは解離性健忘を発症しているのだと思います。」
「解離性健忘って…」
「6歳以降の記憶がまったくないようです。俺のことはもちろん、娘のことも一切記憶にないようです。さっき病院に連れて行ったのですが、予約がないからと診てもらえなくて……」
信じられない、という顔をしたまま固まっていた義母は、息を呑んで妻に向き直った。
不安気に自分を見つめる娘の姿に、柔らかな笑みを浮かべる。
「詩織、おかえりなさい。中でゆっくり話をしましょう。あなたの好きなクッキーもあるのよ。」
「クッキー?」
「そう。チョコとバニラの市松模様のクッキー。晩ごはんが食べられなくなるから、食べ過ぎちゃだめよ。」
娘はパッと笑顔になり、元気に返事をして、勝手知ったる様子で家の中へ入っていった。
そんな娘を見送ってから、義母は「とにかく話を聞かせて頂戴。」と暗い声で呟いた。
俺は小さく頷き、「お邪魔します。」と言って靴を脱いだ。
リビングでは、妻が嬉しそうにクッキーを食べていた。
義母はそんな妻に牛乳を、俺にはアイスコーヒーを出してくれた。
「それで、これはどういうことなの?」
「専門家じゃないので詳しくは……。でもおそらく、強いストレスが原因ではないかと思います。」
「昨日までは大丈夫だったじゃない!ほかにも何かあったんじゃないの!?」
「……実は…」
義母には魔法陣のことは話していなかった。
話したところで信じてもらえないと思ったし、そもそも理解してもらえるかとうかもわからなかったからだ。
しかし妻のこの状態を説明するためには、必要だろう。
俺は順を追って、事の経緯を話し始めた。
※
「つまり、異世界転移したかもしれないってこと?」
想像していたよりスムーズに、義母は状況を理解してくれたらしい。
意外ではあったが、どうやら娘との世間話から、最近の流行りの漫画の話を聞いていたおかげのようだ。
「にわかには信じられない話だわ。でも、あなたたちが2人揃って見たというなら、そうなのでしょう。」
「信じていただけるんですか…?」
「正直半信半疑ね。でも、詩織がこの状態だし、それだけの事態だってことはわかるわ。……けれど、今一番怖い思いをしているのはあの子でしょうに。現実から逃げるだなんて、情けない子……。」
厳しい言葉を口にしながらも、妻を見つめる義母の眼差しは憐れみと悲しみに満ちていた。