173 遅効性の毒
魔王がどれほどの力を持っているのかはわからないが、ノアが警戒するということは相当の実力者なのだろう。
せっかく娘の目と鼻の先にまでたどり着いたのに、娘を隠されてはたまらない。
しかし、このまま部屋で待機していても状況は好転しないだろう。
「魔王のところには、サミューかロズを使いに出そうと思う」
ノアがいい、サミューが『ならば自分が』と手を挙げる。
ロズは出遅れたとでも言いたげな悔しげな顔をしていたが、張り合うつもりはないようだ。
ノアも「じゃあ、サミューに頼むよ」と了承する。
「危なくないのか?せめてふたりで行った方が……」
そう声を上げた俺の背中を、サミューがポンポンと叩く。
『俺は強いから、大丈夫。それに、護衛がふたりして対象から離れるなんてありえないだろ?』
「……わかった」
サミューは渋々頷いた俺に笑いかけ、ドアをすり抜けていってしまった。
その背中を追うように扉をぼんやり眺めていた俺の腕を、誰かがぱっとつかんだ。
瞬間、さっき手をつかまれた感覚を思い出し、思わず振りほどく。
「おっと。驚かせちゃったね」
振り払われた手をあげたまま、困ったようにノアが笑う。
俺は「悪い!」と謝ったが、ノアは「大丈夫だよ」と言って俺に手を差し出した。
その手に俺は、そっと自分の手を伸ばす。
俺の手をとったノアは、手首のあたりをじっと見ていた。
何かあるのかと訊ねると「ちょっとね」と言って、指先を俺の手首の筋のあたりにあてた。
そのまま手首がじんわり暖かくなったかと思うと、ノアが一気に何かを引き抜いた。
黒くて細長い、ミミズのような何かを。
「そ、それ……」
あれが今まで手首についていたのかと思うと、ぞっとする。
ノアが離した手首をさすりながら出した声は、少し震えていた。
「さっきつけられたみたいだね」
「町で手をつかまれたときか?」
「うん。どんな手だったか覚えてる?」
「……多分、子どもの手だ。やけに小さかったから、幼児かもしれない。……サミューが振り向くなといったから、姿は見ていないが」
俺の言葉に、ノアは小さく頷いた。
「そうだね。振り向かなくてよかったと思うよ。きっとその子は、かわいい幼子の顔をしていたんだろうね。伊月くんは、そんな小さな子の手をとっさに振りほどくことなんてできなかっただろうし」
「子どもに神が乗り移っていたのか?」
「いや、多分子どもに擬態していたんじゃないかな。きみの油断を誘って、害をなすために」
ノアがミミズのようなものをぎゅっと握りしめると、それは黒い塵になって消えていった。
ノアは汚いものを振り落とすかのように、パンパンと手を叩く。
「それは……」
「遅効性の毒のようなものだよ。サミューに弾かれたとき、とっさに植え付けたんだろう。忘れたころに効果が出るようにしておけば、運よく君の命を奪えるかもしれないと踏んで」
血の気が引いたままたたずむ俺に、ノアはにっこりと笑い「でももうやっつけたから大丈夫だよ」といった。
俺は守られることしかできない自分をふがいなく思いながら「ありがとう」と答える。
ふと妻に視線を向けると、怒ったような顔をしていた。
どうしたのかと問いかけると「絶対に許さない」と小さくつぶやく。
「……詩織?」
普段穏やかな妻からは考えられないような、冷たい声だった。
妻の異変を察知したのか、コトラが心配そうに妻の足元にすり寄る。
妻はそんなコトラを、無表情のまま抱き上げた。
コトラを撫でる手は、いつも通り優しげだ。
それでも、妻の瞳には確かに燃えるような怒りが宿っていた。