162 瞳
娘のいる世界へ行く。
そう思うだけで、俺の心は浮足立っていた。
それと同時に、どうしようもない緊張感に苛まれる。
娘が元気でいることはノアに聞いているが、詳細な現状はわからない。
もしも迎えに嫌な顔をされたら、なんてネガティブな考えすら頭をよぎる。
「伊月くん、大丈夫?具合悪い?」
心配そうな顔で妻が首を傾げる。
俺は首を振って、大丈夫だと笑った。
行く前から不安になっていてもどうしようもない。
納得してない顔の妻の頭をワシワシと撫で、気持ちを落ち着かせる。
本当はコトラに癒されたいが、撫でようものなら逃げるかひっかいてくるかの二択なのでしょうがない。
「よし、じゃあ仕上げに入ろうか」
「仕上げ?」
ノアの言葉に思わず聞き返す。
ノアは頷き、説明してくれた。
これから行く世界の魔王領には、さまざまな魔族が暮らしている。
人間に近い見た目のものもいるので、それらしい格好をしておけば問題ないようだ。
それらしい格好というのが、さっき衣装替えしたこの格好というのが複雑な気分ではあるが。
ただ人間と魔族には、決定的な違いが一つあるという。
それは瞳だった。
向こうの世界の人間の瞳は、俺たちの世界のものによく似ている。
しかし魔族の瞳には模様が入っているそうだ。
模様の種類は千差万別だが、どれも特徴的で目を引くため、人間か魔族かの見分けはたやすいらしい。
「認識阻害の魔法も考えたけど、下級魔族ならまだしも中級や上級になると感知される可能性があるからね。古典的な方法だけど、こっちのほうが確実かな」
そう言ってノアが小さな箱を取り出す。
開かれた箱の中には、色とりどりのコンタクトレンズが入っていた。
「わ、かわいい!」
にこにこしながらカラコンを吟味する妻を尻目に、俺は若干の冷や汗をかいていた。
「伊月くん、どれにする?これとか似合うんじゃない?」
「あ、いや、俺はその……」
「好みの色とかある?」
「いや、その……そんなに柄が入ってたら、視界が悪くなるんじゃないか?」
俺の言葉に、ノアは「問題ないよ」と笑った。
なんでもノア特製のこのカラコンをつけると、むしろ視力がちょっと良くなるらしい。
「遠くのものもくっきりはっきり見えるから、安心してね」
「いや、でも……コンタクトじゃなくてもさ、手軽にサングラスとかでもいいんじゃないか?」
「魔王領は日が当たらないから、一日中暗い土地だよ?サングラスなんてつけてたら変だよ」
「う……でもこんな派手なの、おじさんには似合わないし……」
「おじさんって、今は若返ってるでしょ」
そう言って、ノアがにやりと笑った。
妻も押し問答を聞いているうちに何かを察したらしく、悪い顔をしてこちらを見ている。
俺は視線をそらしつつ、新しい反論を探したがもう何も思いつかなかった。
「伊月くん、怖いんでしょ?」
くすくすと妻が笑う。
続けてノアが、子ども相手のような提案をする。
「大丈夫。じっとしてれば僕がつけてあげるから、詩織ちゃんに手をつないでもらってたらいいよ」
ニマニマ俺を見る2人に、俺は観念したようにため息をついた。
怖いものは仕方ない。
何せ幸いなことに、生まれてこの方視力に不自由したことは一度もないし、コンタクトをつけたことも皆無なのだ。
娘のためだ、と止まらない冷や汗をぬぐって覚悟を決める。
しかし、コンタクトをつけたノアの指が近付いた瞬間、とっさに目を瞑ってしまった。
深呼吸して何とか目を開けていようと頑張るも、反射なのか何なのか、目を瞑らずにいられない。
自分の情けなさに打ちひしがれていると、ノアが「やれやれ」と幼子を見守るように笑った。
そしてノアの手のひらが、閉じられた瞼の上に重なる。
途端、ぽうっと暖かな光を感じた。
恐る恐る目を開くが、視界に変化はない。
「転移魔法でつけてあげたよ。特別だからね」
そう言って、ノアが手鏡を差し出した。
鏡に映る俺の瞳は、深い青で縁取られ、中には黄色い三日月のような模様が浮かんでいた。