特別編(16)絶望の淵
画面の中の伊月が、片手をあげて合図らしきものを送る。
それからすぐ、伊月は仲間とともに、潜んでいた木陰から飛び出した。
その視線の先には、奈央の姿がある。
亮介は思わずテレビにしがみつき「がんばれ!」と繰り返し叫んでいた。
おそらく画面の中の伊月は、奈央を連れ戻そうとしてくれているのだろう。
絶望していた亮介の目に、強い希望の光が宿る。
しかし、事態は思いもよらない展開を迎える。
奈央のもとへ駆け出した伊月たちは、待ち構えていた騎士らしき男たちに取り囲まれてしまった。
伊月も騎士たちの動きに動揺したそぶりを見せていることから、彼らにとっても想定外のことだったのだろう。
亮介はその様子を、固唾をのんで見守っている。
やがて奈央が、首元にぶら下げていた笛を吹いた。
するとキラキラと輝く折のようなものが、奈央を包み込んだ。
「……なんだよ、これ」
呆然と呟いた亮介は、すがるような思いで画面の中の伊月に懇願していた。
奈央を助けてくれ。
諦めず、頑張ってくれ。
しかしその思いは届かず、伊月とその仲間たちは何か小声で会話を交わしたあと、武器を捨てて投降してしまった。
「……なんでだよっ!」
怒りとも絶望とも知れぬ思いで、亮介は吐き捨てた。
そして全身の力が抜けるのを感じ、その場に崩れ落ちる。
そのまま亮介は、嵐のような感情に身を任せ、握り締めた拳を何度も何度も地面に叩きつけた。
熱を帯びた拳から赤い液体が飛び散ってもお構いなしに、亮介は地面を殴り続けた。
「あとちょっとだったのに!ふざけんなよ!」
絶叫するように叫んだ亮介の声が、誰もいない空間に響き渡る。
「助けてくれよ……頼むから……誰でもいいから、奈央を助けてくれよ……」
みっともなく泣きじゃくりながら、亮介は何度も何度も繰り返し懇願した。
それが誰に対する願いなのかすら、もはや亮介にはわからなかった。
異世界に渡った伊月に対してなのか、それとも神に対してなのか。
どれくらいの時間、拳を叩きつけ続けたのだろう。
亮介は気が遠くなる感覚を覚える。
どうやら、覚醒のときが近いらしい。
最後にちらりと眺めた画面には、寂し気な顔をした奈央の横顔が映し出されていた。
※
見慣れた天井、暗い室内。
汗をびっしょりとかいて、亮介は目を覚ました。
近くに置いていたタオルで、乱暴に汗と涙をぬぐう。
夢の中であんなに血まみれになっていた亮介の拳は無傷で、わずかな痛みすらない。
あの夢は、果たして現実なのか、それとも亮介の妄想なのか。
自分が正常な精神状態かどうかさえ、最近の亮介には自信が持てずにいた。
「……俺があそこにいれば、すぐに助けてやれたのにな」
亮介はそうぼやきつつも、どうあがいても自分が奈央のいる世界へいくことなどできないと理解していた。
それでも何の因果か、異世界行きの切符を手に入れた伊月を妬ましく思う。
亮介はゆっくりと立ち上がり、冷蔵庫から炭酸水を取り出した。
奈央が健康にいいから、と飲み始めた炭酸水。
亮介は正直そんなに炭酸水が好きではないのだが、炭酸水を飲んでいると奈央がいたころを思い出せるので、気づけば飲むのが習慣になっていた。
奈央の痕跡は、部屋のいたるところに残っている。
壁に飾られた結婚式の写真。
奈央が可愛がっていた観葉植物。
奈央が姿を消してからめくられていないカレンダーには、彼女の筆跡でさまざまな予定が書きこまれている。
奈央が姿を消して、3年以上の月日が過ぎた。
亮介の家族や友人は、もう諦めろと言ってくる。
どうせほかの男と逃げたのだろうと。
そんなはずがない。
奈央が俺が裏切るはずがないと、亮介は知っている。
それでも、異世界で奈央は二人の男に求婚され続けていることを亮介は知っていた。
以前テレビの画面で、奈央に甘い言葉をかける男たちの姿が映し出されていたのだ。
奈央がそれを受け入れることはなかったが、長い孤独は心を疲弊させる。
遠い異世界で奈央が心のよりどころを求めても、仕方のないことかもしれないと亮介は思っていた。
「……なんで、奈央だったんだよ……」
ぽつりと亮介が呟いた。
しかしその言葉に答える相手は、どこにもいない。