156 家族
正直、斎藤の言葉にあまり驚きはしなかった。
なんとなく、斎藤は元の世界に戻らないと、そう決めるような気がしていたのだ。
「理由を伺っても?」
俺の言葉に、斎藤は頷く。
「この世界で過ごした時間は長く、今元の世界へ帰っても、きっと順応することは難しいでしょう。私が暮らしていたころと今では、生活は大いに変わっているはずですし」
「……それは、確かにそうかもしれませんが……」
「あの事故で家族を失い、かつての友人たちはもう私のことなど忘れてしまったでしょう。未練がないとは言いませんが、今になって戻ることにあまりメリットを感じないのです」
20年以上続いた異世界生活は、あまりにも長すぎたということだろうか。
20年前の知識しかない状態で元の生活へ戻ると、苦労することも多いはずだ。
「しかしノアは、生活のサポートはできるだけすると言ってくれました。周囲の記憶を改ざんし、行方不明だった事実を抹消することもできると。もしかしたら、私が危惧しているよりもずっとすんなり、元の世界の生活に慣れることもできるかもしれません」
「……それでも、この世界に残ることを選ぶのですね?」
俺の言葉に、斎藤は微笑んだ。
「ええ。この世界は私にはあまり優しくはありませんが、それでも私は案外この世界での暮らしを気に入っているんです。人間関係に煩わされることもなく、自然の中で穏やかに生きていく。それは思いのほか、幸せなことなのかもしれません」
「……そうですか」
「残念ですか?」
斎藤の問いかけに、俺は首を横に振った。
斎藤自身が納得して決めたことであれば、俺は受け入れるだけだ。
斎藤はそんな俺を見て、満足そうに笑う。
「伊月さん。あなたはいつでも、人の気持ちを第一に考えられる人です。だから私は、あなたのことを信頼して蓮を託すことができる」
「蓮は……」
「まだ悩んでいるようですが、必ず元の世界へ戻ることを決意するでしょう」
「……そうですか。でも、連れて帰るのは俺じゃなくて……」
ちらりとノアに視線を向ける。
斎藤は微笑んだまま続けた。
「わかっています。ノアが連れ帰ることも、伊月さんたちがまだ旅を続けるということも。それでも伊月さんたちはいずれ、元の世界へ戻るでしょう?そのとき、蓮が困っていたら力になってくれると信じています」
「……それは、俺にできることがあれば、もちろん。でも蓮には家族や友人なんかもいるでしょうし、俺ができることはないかもしれませんが……」
「それでも、信頼できるあなたが同じ世界にいてくれると思うだけで、安心できるものなのです。短い間ですが、この世界では私があの子の保護者のようなものでしたから」
蓮が異世界へきて数ヶ月。
その間に斎藤たちが育んできた絆は、家族と言っても差支えはないだろう。
俺はそこまで考えて、ようやく斎藤が元の世界へ戻らない理由に納得がいった。
生活の変化への不安ももちろん本心だろう。
しかし、それよりも何より、彼はもう一人の家族を置いていきたくないと思ったのかもしれない。
「斎藤さんは、ラウルが大事なんですね」
俺が言うと、斎藤は少し驚いた顔をしたが、はっきりと頷いた。
ラウルは元の世界で死んだほうがましだと思える生活をしていたと言っていた。
だからこそ、彼はこの世界で生きていくことを望むだろう。
そして斎藤は、元の世界へ戻ることよりも、ラウルとともに暮らしていくことを選んだのだ。
穏やかな表情をしている斎藤は、まぎれもなく「父親」そのものだった。