139 潜伏
「お知り合いですか?」
斎藤に訊ねると、彼は「わかりません」と首を横に振った。
「ただ、私のことを勇者殿と呼ぶのは、魔王討伐前にオートラック王国で親しくしていた一部の兵士だけです。おそらく彼も、その一人かと」
斎藤の話によると、そのほかの兵士や騎士は斎藤に敬称をつけることはなかったそうだ。
それどころか、名前を呼ばれることすら少なく「おい」とか「そこのやつ」とかで済まされることがほとんどだったそうだ。
とくに貴族出身者は、斎藤を下等な異世界人として侮蔑の視線を向けていたという。
斎藤が親しくしていたのは、平民出身の一部の兵士たちだった。
彼らの役割は、斎藤がスキルを磨くための訓練から逃げ出さないための見張りだったという。
はじめは兵士たちからも異世界人として一線を引かれていたが、懸命に訓練に取り組む斎藤の姿に認識を改めてくれたらしい。
彼らは斎藤に敬意を払い、できる限りのサポートをしてくれたそうだ。
「魔王討伐後は周囲の目も変わり、民衆からは勇者様と呼ばれるようになりました。ただ彼らは変わらず、私を勇者殿と呼んで親しくしてくれていました。……国を追われる、あの日までは」
斎藤が貴族と揉めたことを発端とする事件で、兵士たちが斎藤を庇うことはなかった。
それどころか、訓練中も不真面目かつ高慢だったと吹聴して回ったという。
「魔王討伐の仲間に裏切られたあと、彼らも敵に回ったと知り、絶望的な気持ちでした。今となっては、彼らにも事情があったのだとわかります。国に騙されたのか、それとも脅されたのか……。だから、正直今は彼らを恨んではいません。もちろん当時は、到底許せないと思っていましたが」
「師匠……」
寂しげに言う斎藤を、蓮とラウルが不安そうに見つめる。
斎藤は大丈夫だとでもいうように、2人の頭を撫でた。
「今では遠い過去の話です。それでも、久しぶりに勇者殿と呼ばれ、複雑な気持ちになってしまいました」
そう言いつつも、斎藤は吹っ切れたような顔をしていた。
斎藤はオートラック王国でのつらい日々を引きずりつつも、過去のことと区切りを受けられるようになったのだ。
その境地に至るまでどれだけの時間がかかったのかは、俺には計り知れない。
先ほどの兵士が俺たちを見逃したのは、斎藤への罪悪感からか、贖罪のつもりなのか。
どちらにせよ、積極的に俺たちを争うつもりはないだろう。
「そろそろ進もうか」
ノアが提案し、俺たちは頷いた。
これから俺たちは人目を避けつつ、情報屋が教えてくれた聖女と接触しやすいスポットを目指す。
ユミュリエール教国は閉鎖的な国で、よそ者がうろついていることはほとんどないという。
街に立ち寄ってしまっては、不審者として国に報告される恐れがある。
それを避けるため、必然的に今後は森の中を移動することになる。
ユミュリエール教国は自然豊かな国で、森は神聖なものと認識されている。
そのため、生活に必要なものを除き、森の恵みを採取することは固く禁じられているそうだ。
緑豊かな森の中は、身を隠すのに最適だった。
俺たちは少しずつ移動しながら、森で数日を過ごした。
野営にもずいぶん慣れたので、さほど不便はない。
用意していた携帯食にも十分余裕があるうちに、こちらを訪れる集団の気配を感じ取る。
情報屋の話し通り、狙いを定めていた場所に一台の馬車が止まった。
周囲には、立派な鎧に身を包んだ騎士が控えている。
馬車の中から降りてきて、大きく伸びをしたのは、小柄な女性だった。
背中まで伸ばした黒髪が風にたなびいて揺れる。
明らかに日本人の見た目をした彼女が、ユミュリエール教国の聖女なのだろう。