137 宿と名物料理
終点の国境沿いの街に到着したのは、すっかり日が暮れたころだった。
残っていた乗客は俺たちだけで、駅も小さく寂れた様子だ。
じっとりとした目つきで俺たちを眺めた駅員は「こんな街に何の用だ?」と訝しげに問いかけた。
答える義務はないが、無視をして不審者として通報されるわけにはいかない。
俺は「知人の家がこのあたりで」と濁して答えた。
駅員はなおも怪しむような視線を向けていたが、すぐに興味を失ったようで切符を回収して俺たちを駅から追い出した。
そのまま駅を閉めるのだろう。
この小さな街には、宿は2件しかないという。
国境が近く、常に緊張状態にあるような街だ。
観光客が訪れるわけもないのだから、仕方がないだろう。
斎藤の案内で、俺たちは駅から離れた場所にある宿に向かった。
なんでも、駅に近いほうの宿は値段の割に部屋も食事も質素で、すこぶる評判が悪いという。
ずいぶん苦々しそうに語るものだと思ったら、斎藤の体験談だった。
ただ20年以上も前の話だそうだが。
「今なら改善してるかもしんないじゃん。近いほうにしようぜ」
列車での長距離移動で疲れたのか、気だるそうに蓮が言った。
俺は苦笑しつつも、確かに可能性は否定できないと思った。
しかし、斎藤には相当苦い思い出があるらしい。
一考の余地もなく却下された。
「そんなにひどかったんですか?」
「……ええ。食事は硬い黒パンに具のないスープだけ。朝食も同じ内容でした。部屋は薄汚く、夜中にはネズミや虫の動き回る音が響いていて、なかなか眠りにつけませんでした」
「うわぁ……」
「それでいて料金は、よその街の高級ホテルと同額程度です」
話を聞いて、蓮ももう近いホテルを勧めることはしなかった。
黙々と斎藤のあとに続いて歩き続けている。
15分ほど歩いただろうか。
元の世界の民宿程度の小さな宿にたどり着いた。
扉を開けて中に入ると、気のよさそうな中年の女将が「いらっしゃい!」と明るく声をあげる。
「見ない顔だね。食事かい?宿泊かい?」
「どちらも頼む」
斎藤が短く答える。
女将は「あいよ!」と返事をして、俺たちの人数を確認する。
「6名様だね。部屋はいくつ用意する?」
「2部屋お願いします」
「はいはい。そっちの猫ちゃんは?ごはんいるかい?」
「あ、お願いします」
「あいよ。うちにも看板猫がいてね、仲よくしてくんな」
女将の言葉に、コトラは尻尾を揺らした。
それが肯定なのか否定なのか俺にはわからないが、女将は肯定ととらえたようで「よしよし」と笑っていた。
部屋の鍵を受け取り、荷物を置くために一度部屋へ向かう。
ここは1階が食堂、2階が客室になっているらしい。
宿泊客はあまり来ないらしく、食堂での収入がメインなのだと女将が言っていた。
地元客が訪れる人気店のようだ。
実際、食堂は多くの人の声で賑わっていた。
荷物を軽く整理してから、部屋をでて食堂へ向かう。
食堂の中は、いい匂いで満ちていた。
ぐぅ、と誰かの腹が鳴る。
食欲をそそられるのも無理はない。
メニューの数が多く、どれにしようか悩んでいると、多くの客席に特定の料理が並んでいるのが目に入った。
あれは何だろうと、近くのテーブルに視線を向ける。
テーブルの客は俺の視線に気づいたらしく「これか?」と料理を指さした。
「あ、すみません。ぶしつけに眺めてしまって」
「いいってことよ。これが気になってんだろ?」
「ええ。みなさん注文されているようなので」
「ここの名物料理だからな。あんたらも頼んでみるといい。信じらんねえぐらいうまいぞ」
そこまで絶賛されると、確かに気になる。
みんな同じ気持ちだったらしく、そろって名物料理を注文することにした。
待つこと数分。
女将さんが「おまちどおさん!」と料理を運んできてくれた。
「わぁ!おいしそう!」
湯気の立ち込める料理をみて、妻が弾んだ声を上げる。
とろとろの鹿肉。
大きめに切られた野菜たち。
それを包み込む深みのあるソース。
「鹿肉の赤ワイン煮込み。うちの名物だよ。パンはお替り自由だからね。たくさん食べな!」
見た目と匂いだけで、十分おいしさが伝わってくる。
これは間違いのないやつだ。
食べなくてもわかる。
ひとさじ口に入れると、想像のさらに上を行くおいしさだった。
なんだこれ、思ったよりも繊細な味わいだ。
一匙一匙、味わいながら食べる。
それでもあっという間に皿は空になってしまった。
パンもふわふわで柔らかかった。
煮汁をよく吸ったパンは、格別の味わいだ。
「こっちの宿に来てよかったぁ」
しみじみと蓮が言う。
そうだろ、といった斎藤が、誰よりも嬉しそうだった。