116 提案
斎藤はそっと蓮の背中に手を添えた。
蓮は服の袖で目元を乱暴に拭い、俺たちに視線を向けた。
「俺、日本に帰りたい。……でも……」
蓮はぐっと唇を噛む。
「でも?」
ノアが促すと、蓮は少しためらってから答えた。
「俺だけ帰ることはできない。連れ去られたのは、ラウルもいっしょだ。ラウルが帰れないのに、俺だけ帰ることはできない。それに……」
「それに?」
「悪いけど、まだ完全にあんたたちのこと、信用できない。さっきのだって、何か魔法の力で見せた幻想とかかもしんないじゃん!」
そう言うと、緊張で耐えきれなかったのか、また泣き出してしまった。
蓮はロナリア帝国で殺処分寸前だった。
それはつまり、それだけひどい扱いを受けていたということだ。
安易に他人を信用できない気持ちは理解できる。
そして、ともに逃げてきた仲間を置いて、自分だけ助かることに罪悪感を覚える気持ちも。
俺はノアの方をちらりと見た。
ノアは眉を下げ、頷いてくれた。
「蓮くん。初めて会ったばかりの俺たちを信用できないのは、当たり前だよ。正直に気持ちを話してくれてありがとう。……俺たちは、答えを急ぐつもりはない。だからゆっくりと考えてみてくれないかな?斎藤さんやラウルくんとも、たくさん話をしたほうがいいと思う」
「……本当に?」
「ああ、本当に。それに、この世界にはもうひとり、日本からの転移者がいるらしいんだ。俺たちは、彼女にも会いに行かないといけない」
「もう一人……?」
反応したのは、蓮ではなく斎藤の方だった。
戸惑いの表情を浮かべる彼に、俺は肯定する。
「ええ。もう一人は、ユミュリエール教国に」
「ユミュリエール……」
そう呟くと、斎藤は頭を抱えてしまった。
どうしたのか問いかけようとすると、手で制止された。
そして斎藤は深くため息をつき、天井を仰ぎみた。
「あの国は、一筋縄ではいかんぞ……!」
そういう斎藤の顔は、苦々しそうに歪んでいた。
斎藤は少し考え込んでから、数日家に滞在しないかと提案を持ちかけてきた。
俺たちからすると、蓮からの信用を得られる絶好の機会だ。
しかし、斎藤の真意がわからないため、軽々しく了承してもいいものなのか戸惑った。
そんな俺を尻目に「お言葉に甘えて」とノアが勝手に提案に乗った。
そして大丈夫だとでも言うように、俺の背中をぽんぽんと叩いた。
「幸い、小さな小屋だが2階に部屋が余っています。掃除は必要ですが、自由に使って頂いて構いません」
「あ、ありがとうございます……」
「蓮、ラウル。案内して差し上げなさい。あと、掃除のお手伝いも」
斎藤の言葉に、蓮とラウルは戸惑いつつも頷いた。
蓮ももうすっかり落ち着いているようだ。
ちらりと斎藤を見ると、元の無表情に戻っていた。
何を考えているのかわからない。
俺の視線に気づいた斎藤は、意味ありげに俺をじっと見つめ返し、やがて視線をそらした。
蓮とラウルの後をついて2階に上がりながら、俺は斎藤が帰りたいかどうか明言しなかったことに気づいた。
これから数日滞在する間に、斎藤の意思も確認しなくてはならない。
今までの転移者の場合、会いに行くまでが大変だった。
しかし今回ばかりは勝手が違う。
この世界について数時間で、蓮と斎藤、ふたりの転移者に遭遇することができた。
ただ、これからどう信頼を得ていけばいいのか……難しい問いの答えを探すため、俺はしばらく頭を悩ませることになるだろう。
そう考えると、少しだけ気が重くなった。