110 懐かしい味
勇司やシャルロッテたちと別れ、白い扉をくぐった俺たちは、真っ白な空間の中にいた。
てっきり新しい世界に転移したものだと思っていたから、驚いて周囲を見渡した。
しかしどこを見ても、何もない真っ白な空間が広がっているだけだった。
「驚かせちゃったかな?」
眉を下げて、ノアが言った。
俺ははっとして、深呼吸をして頭を落ち着かせる。
「いや、取り乱して悪い。大丈夫だ」
「そう?」
そういうと、ノアはパチンと指を鳴らした。
するとシンプルなテーブルセットが現れた。
ご丁寧に、椅子の一つにはコトラがすっぽり収まるサイズの柔らかそうなクッションが設置されている。
コトラは楽しげにひと鳴きし、クッションに飛び乗った。
気に入ったらしく、そのまま丸くなってくつろいでいる。
「次の世界へ行く前に、ちょっと話をしておきたくてね」
「話?」
「長くなるから、何か飲みながら話そうか。伊月くんはコーヒーでいい?」
「あ、ああ。ありがとう」
戸惑いながら返事をしつつも、俺は内心、久しぶりに聞くコーヒーという言葉にドキドキしていた。
しばらく続けてきた異世界生活では、飲み物と言えば紅茶かお茶がほとんどだった。
たまに果実水なんかを飲むこともあったが、異世界ではコーヒーは目にしたことすらない。
しかし俺は実は、大のコーヒー党なのだ。
元の世界では、1日に少なくとも3杯は飲んでいた。
「はい、どうぞ」
差し出されたコーヒーの香ばしい匂いに、思わず頬が緩む。
一口飲み、ほうっと息をついた。
そんな俺を、生暖かい目でノアが見ていた。
「ちょ、そんなに見るなよ!」
恥ずかしくなってそう言うと、ノアはくすくす笑った。
「ごめんごめん。あんまりうれしそうだったから」
「……否定はしない」
「おかわりもあるからね」
「……ありがとう」
俺の隣では、妻が嬉しそうにコーラフロートを飲んでいる。
黒いコーラに、白いバニラアイスが乗った、これまた懐かしい代物だ。
ご丁寧に、ちょこんとさくらんぼも添えられている。
ノアは満足そうな顔で、カバンから細長い小さな袋のようなものを取り出した。
何か見覚えがあるな、と思ってまじまじ見つめる。
「あ、ちゅーる!」
ノアを指さして、妻が言う。
よく見ると、確かにノアが手に持っているのは、多くの猫を虜にするおやつ、ちゅーるだった。
ノアはちゅーるをコトラにそっと差し出す。
コトラは嬉しそうにぺろぺろと舐めながら、ちゅーるを夢中で味わっている。
「別世界のものは異世界に持ち込まない方がいいからね。コーヒーもコーラフロートも、ちゅーるも今だけ特別だよ」
そういうノアは、なんというか、孫を甘やかす祖父母のように見えてならない。
俺は咳払いをして、話を戻すことにした。
「それで、話っていうのは?」
「ああ、次の世界のことなんだけどね、ちょっと状況が複雑で」
「複雑?」
「そう、実はね、次の世界の転移者は、ひとりだけじゃないんだ」
少し困ったように、ノアが言った。
「絵美ちゃんや翔くんのように、二人まとめて召喚されたってことか?」
俺は初めて行った異世界で出会った双子の転移者を思い出していた。
女神に騙され、勇者の役割を負わされていた彼らは、元の世界へ戻ってから元気でやっているだろうか?
「ううん。まとめてじゃない。違う場所、違うタイミングで召喚されたんだ」
「場所もタイミングも違う……?」
「そう、それに二人じゃない」
ノアはため息をついて、吐き捨てるように呟いた。
「君たちの世界から召喚された人間は、3人いる」