特別編(8)決別
勇司が佐々木に別れの挨拶をしてから3日後の夜、夕飯を終えてぼんやりとスマホを眺めていた勇司は、チャイムの音に立ち上がった。
来客の予定もなければ、荷物を頼んだ覚えもない。
もしかして、と淡い期待を抱きつつ、玄関ドアののぞき穴から外の様子を窺った。
しかし、扉の前には誰もいない。
イタズラだろうかと肩を落としたが、念のため確認しようとドアをゆっくり開ける。
すると、細く開いたドアの隙間から、いきなり手が飛び出てきた。
勇司は驚いてとっさに閉めようとしたが、その手が子どものものであることに気づき、何とか踏みとどまる。
子どもの手はドアをつかみ、そのままゆっくりと開いた。
「……びっくりした?」
ちょっと意地悪そうな顔をして、少年が顔を出した。
勇司はため息をつき「危ないぞ」とたしなめる。
「勇司くんの反射神経を信じた結果だよ。それに、ドアに挟まれたくらいじゃ、僕は怪我なんてしないからね」
「いや、だからって……」
「ごめんごめん」
あまり悪いとは思っていなさそうな顔だ。
勇司は呆れつつも、諦めて少年を部屋に招き入れた。
「実際に会うのは初めてだな」
「そうだね。それじゃあ、改めまして、僕はノア。勇司くん、君を迎えに来たよ」
そう言いながらも、ノアは勇司の部屋の中を眺めるのに忙しそうだ。
珍しいものなんかないだろうに、と勇司は思ったが、なんだか楽しそうなので好きにさせておく。
あらかた見物を終えたノアは、満足そうな顔をしている。
「何がそんなにおもしろかったんだ?」
勇司が訊ねると、ノアは嬉しそうに答えた。
「一人暮らしの男の子の部屋を見るのは初めてだからね。女の子たちには不評のようだったけど、僕はこういう乱雑な感じも悪くないと思うよ」
褒められているのか、けなされているのか、わからないセリフだ。
そうぼんやり考えたあと、勇司ははっとした。
「ちょ、待て!女の子って誰のことだよ!」
「え?あぁ……気にしない、気にしない」
「いや、気にするだろ!まさか……」
「大丈夫!伊月くんは好意的だったよ!」
「伊月くん?……って、瀬野さんか!ってことは……」
「大丈夫。シャルちゃんもロエナちゃんも詩織ちゃんも、若干引いてただけだから」
ノアのフォローになっていない言葉に、勇司がうなだれる。
ノアはくすくす笑って、勇司の背中をポンポンと叩いた。
「ごめん、いじめすぎたかな。反応が面白そうだったから、ついね」
「……まあ、いいけど」
「ところで、準備はいいかな?」
ノアの問いに勇司が頷く。
それに応えるように、ノアは指をぱちんと鳴らした。
すると、ユニットバスへ続くドアが姿を変える。
勇司は唖然としてその光景を眺めていた。
「こりゃ……想像よりすごいな」
美しい装飾があしらわれた白い扉は、神々しさを感じさせる荘厳さだ。
ノアがもう一度指を鳴らすと、扉がゆっくりと開いた。
その先にはトイレもお風呂もなく、ただ優しい光が満ちていた。
「この扉をくぐると、もうこの世界には戻ってこられない。それでも構わないかい?」
「ああ。よろしく頼む」
ノアは頷いて、扉の中へ歩みを進めた。
勇司もそのあとに続き、扉に足を踏み入れる。
扉の中の光がまぶしくて、勇司は思わず目を閉じた。
そして恐る恐る目を開けると、真っ白な空間の中にいた。
後ろを振り返ると、扉はすでに消えていた。
「やあ、勇司くん」
耳慣れない男の声がして、勇司は正面に向き直った。
目の前には、ノアと見知らぬ男が立っていた。
白く輝く髪を長く伸ばした男は、滑らかな白い衣装に身を包んでいる。
衣装の刺繍の柄ははっきりと見えるのに、どうしてだか、勇司には男の顔がぼやけて見えた。
「……神様?」
勇司が問いかけると、男は頷いて肯定した。
「私はこの世界を司るもの。君と君の妹に起こった不運については、私にも責任がある。女神の魔の手から君たちを守れず、すまなかった」
そういって、神は頭を下げた。
それだけで、なんだか勇司は報われたような気持ちになった。
「君にひとつ、聞きたいことがあってね」
「聞きたいこと?」
「そう。今から君は異世界へと旅立つ。この世界での君は、どうしたい?」
「この世界での俺?」
神に与えられた選択肢は3つだった。
一つ、元からこの世界で勇司は存在していなかったことにする。
二つ、この世界の勇司は死んだことにする。
三つ、この世界の勇司は失踪したことにする。
存在を消してしまうのが、一番混乱が少ないだろう。
そう思いつつも、勇司は迷いなく三つ目の選択肢を選んだ。
「失踪扱いにしてくれ。まさに、神隠しってやつだな」
勇司の言葉に、神は頷いて了承した。
「だが、意外だったな。君はほかの選択肢を選ぶと思っていたよ」
「……俺の存在が消えちゃうとさ、異世界転移被害者の会にも影響が出るかもしれないじゃん?せっかく瀬野さんたちが帰してくれた子たちの話の信ぴょう性がなくなったら、みんな困るだろ」
「なるほどな」
「それに……両親には、俺が死んだなんて思わないでほしいんだ」
ぽつりと勇司が言った。
「あいつらは俺のことも、妹のこともあっさり見捨てた。役に立たないと判断したからだ。でも、あいつらにはほかに、老後を支えてくれるような子どもも親戚もいない。年老いた未来で、俺たちを見捨てたことを後悔させたい。今度は自分たちが捨てられたんだって、思い知らせてやりたいんだ」
勇司は今になって、自分が心底両親を恨んでいることに気が付いた。
幼い病気の妹を、そして自分自身をあっさり見限った両親への怒りが、胸の奥から湧き出てくる。
「……俺、性格悪いな」
悲しげに言った勇司の頭を、神がそっと撫でた。
優しく温かいてのひらが、勇司の怒りを和らげる。
「そんなことはない。それは正当な怒りだ。恥じるものではない」
まっすぐな神の言葉に、勇司はほっとしたように笑った。
「これからの君の人生が幸多からんことを」
その神の言葉とともに、勇司はまた白い光に包まれたのだった。