105 緊急事態
ダンジョン内の魔物の数は、想像よりもさらに多かった。
基本的に討伐はせず、地図と照らし合わせて魔物の種類や数を記録していく。
魔物が俺たちに気づいて攻撃を仕掛けてきたとき、ほかの魔物に気取られないよう、なるべく静かに討伐するのが俺の役目だった。
麻酔のイメージで毒魔法を用いたり、強すぎない電気魔法で気絶させたりと、最小限の魔法を使って魔物を討伐していく。
派手な音を立てるのは避けるべきだ。
それに、においに敏感な魔物もいるので出血を伴う攻撃も望ましくない。
タイミングや魔法の強さを調節するのに骨が折れたが、何とか役目をこなすことができているだろう。
精鋭部隊に参加している騎士は、みな顔見知りだった。
ひとりは、ロエナの護衛騎士。
あとの二人は、訓練場でよく手合わせを頼んでくる騎士だった。
やたらと低姿勢だったため、階級が低いのかと思っていたが、ともに騎士団の副隊長を務めているらしい。
若いのにすごいですね、と漏らすと「それはこちらのセリフです」と笑われた。
実はおじさんなんだと打ち明けるとややこしくなるので、あいまいに笑ってごまかした。
「魔物の数も増えていますが……階層にそぐわない高ランクの魔物が出現していることが問題ですね」
眉間にしわを寄せ、ロエナが言った。
彼女の視線の先には、オオカミのような魔物がいる。
サイズは普通のオオカミの3倍程度で、身体からは湯気のようなものがあがっていた。
騎士の一人が、緊張した声で「ブラッディウルフ……」とつぶやいた。
ブラッディウルフ……直訳すると「血のオオカミ」だが、その名の通り凶暴な魔物だ。
自身の血液を自在に操り、相手を攻撃する。
あの湯気のようなものは、周囲の探索のために霧状に変化させた、オオカミの血液だという。
ふと、ブラッディウルフがこちらに視線を向けた。
どうやら気づかれたらしい。
息をのむ間に、目の前までやってきた。
想像以上にスピードもある。
スタンガンの要領で、ブラッディウルフに電撃魔法を放つ。
気絶してくれることを期待して。
しかし、俺の期待を裏切り、ブラッディウルフはよろめいただけだった。
すぐに態勢を整え、こちらを睨みつけながら唸り声をあげている。
内心焦りつつも、息を深く吸って思考を巡らせる。
そして血液を刃に変えてこちらに切っ先を向けてきたブラッディウルフに、氷魔法を放った。
ピキピキピキと音を立てながら、ブラッディウルフが氷漬けになる。
反撃が来るかとしばらく警戒したが、何の反応もない。
どうやら大丈夫だったようだと、胸をなでおろす。
「……さすがですね……」
ぽかんとした様子で、ロエナが言った。
属性の異なる魔法を複数使用できること。
魔法を構築する速度。
詠唱の省略。
このどれもが、特別なことなのらしい。
ロエナも全属性の魔法が使えるらしいが、得意な属性以外は威力が大幅に劣るという。
目を輝かせて矢継ぎ早に語るロエナは、趣味に没頭する少女にしか見えない。
しばらくして、ロエナがはっとして咳ばらいをした。
どうやら落ち着きを取り戻したらしい。
小さな声で「失礼しました」と言い、そっぽを向いた。
その頬がほんのり赤く見えたのは、気のせいだということにしておこう。
そのとき、腕輪が急にブルブルと震えだした。
ノアから預かった伝書鳩が変化した腕輪だ。
俺と妻、コトラとシャルロッテで共有しており、互いに危険が迫ると教えてくれる仕組みになっている。
まさか、誰かに危険が……?!
やがて腕輪は小鳥の姿に戻り、はっきりとした声で話し始めた。
『キケン!キケン!シオリ、タスケニモドレ!』
詩織……妻が、危険?
助けが必要なほど?
妻の装備はノアと元の世界の神の力で、抜群の防御力を誇るはずだ。
それをもってしても抗いきれないほどの危険に晒されているというのか?
小鳥の声は、俺以外にもきちんと聞こえていたらしい。
ロエナが「イツキ様!」と短く俺を呼んで手を差し出す。
その手に、俺と騎士たちが自身の手を重ねる。
ロエナが呪文を唱え、俺たちは光の膜に包まれた。
そして瞬きをする間に、ダンジョンを脱出し、討伐拠点に戻ってきた。
ロエナの転移魔法だ。
急に現れた俺たちに、拠点に待機していた騎士や兵士たちが何事かと集まってくる。
「イツキ様、もう一度転移します!」
ロエナが言い、俺は頷いた。
ロエナは護衛騎士に後を頼み、再び詠唱に入る。
次に転移した先は、王都の検閲所だった。
王宮まではまだ距離がある。
走っていこうとする俺を、真っ青を顔をしたロエナがまた呼び止めた。
「……もう一度、転移します……!」
魔力不足なのだろう、明らかに顔色が悪い。
俺は断ったが「急を要する事態です」とロエナがまっすぐな瞳で俺を見据える。
命の危険はないのかとロエナに問うと「数日休めば治ります」と返ってきた。
ロエナに無理をさせるのは忍びないが、一刻を争う事態だ。
俺は「すまない」と謝り、ロエナの言葉に甘えることにした。
息切れしながらロエナが呪文を唱え、ようやく王宮内に辿り着くことができた。
ふらりとよろめいたロエナを咄嗟に支え、近くの柱に寄りかからせるように座らせる。
そして妻を探すために走り出すと、先程まで腕輪だった小鳥が先導する。
どうやら、妻のところまで案内してくれるらしい。
俺は妻の無事を祈りながら、全速力で小鳥のあとを追いかけた。