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9.

 顔馴染みの御者が操る馬車は、出来る限りの速さで邸に向かってくれている。けれど、とにかく早くと気だけが急いているイルハルドにとっては、それでも馬車が遅く感じた。

 こんな気持ちになるのは、妻であるクレアの容体がとうとう危ういと連絡を受けた時以来だ。

 あの時、自分に代わりクレアの身の回りのことすべてをこなしてくれていたのは、他でもないエステル。泣きたいだろうにぐっと涙を堪えて、葬儀の手配を手伝うさまはさすが伯爵家の長女だと褒められていた。

 その時の姿を思い出してから、また手紙に視線を落とす。そこには、幼い頃からずっと使っているエステルのサイン。間違いなく、この手紙の主はエステルだ。

 だからこそ、イルハルドはその内容を信じたくはなかった。エステルが離れに追いやられたうえに、伯爵家の長女とは思えない使用人のような扱いを受けているなんて。


「旦那様、お帰りなさいませ!」


 馬車の音を聞きつけたのだろう、侍女長を任せているカーラが慌てた様子で邸から飛び出して来た。予定にない主人の帰宅だとはいえ、茶色の髪は丁寧にまとめたとは言い難く、服だって使用人が着るにしてはいささか上等すぎるような気もするが、イルハルドは碧の瞳を細めただけで、思っている事とは違う当たり障りのない挨拶を口にした。


「ああ、カーラ。久しく帰れていなかったが、家の事は変わりないか」

「ええ、このカーラが変わらぬように手配していました」


 周りの使用人たちに、イルハルドが見知った顔がない。それどころか、主人であるはずのイルハルドを見ても誰もがぼんやりとした顔をしている。

 この期に及んでエステルの手紙が嘘だとは思っていないが、それでももしかして、という希望は捨てきれなかった。


 イルハルドともあまり関わったことのない親戚から、もし人手に余裕があるのだったらと懇願に近い紹介で雇い入れたカーラは、ここがダメだったら他に伝手がないと分かっていたのだろう。根を詰め過ぎだとクレアから遠回しの注意がされるくらいに良く働いてくれていた。

 だからこそ、この短い期間でも侍女長という職を預けるに至ったわけなのだが。

 自負だってあるだろう、主人が帰らずとも執事頭が領地に行きっぱなしでも邸は自分の指示の下で常に整えていると。わずかに張った胸が、言葉にせずともそれを主張している。


「では、エステルはどこにいる?」

「……お嬢様は、離れにおいでです。きっと、奥様との思い出を懐かしんでおられるかと」


 何も知らぬ様子で告げたイルハルドに、わずかに言葉に詰まる様子を見せたカーラだったが、その後の問いかけにはすらすらと、まるでそう決めてあったかのように答え始める。

 自然な受け答えに、納得できるだけの理由。そうなれば最初に詰まったのもエステルの気持ちを汲んだようにも感じてしまうのだから、カーラの態度は勤勉な侍女長そのものだ。

 娘の手紙を疑う訳もないが、今までの働きぶりを見るにそのような事態になっているとも思いづらい。結果として、イルハルドはただ用件だけを告げるに留まった。


「そうか。では、父が帰ったと伝えてくれ。夕食を共にしよう」

「かしこまりました」


 頭を下げたカーラの指先が僅かに震えていたが、指摘する間もなくすぐに背を向けられる。

 夕食の時間になれば会えるのだから、離れで母との思い出に浸っているエステルの邪魔はしないでおこう、と考えたイルハルドは、知らなかった。

 実の父とはいえ、伯爵であり宰相補佐のイルハルドになんの印も押されていない手紙が届くまでには、それなりに時間が必要だということ。そして、エステルが手紙を出したその日に事態は急転し、離れにエステルがいないことを。

 カーラがあまり動揺した様子を見せなかったからか、予想していたよりも状況は悪くないのではないかと感じ、余裕ぶって書斎に向かった自分を、殴りたくなるということを。



「お嬢様は、旦那様に合わせる顔がないと仰っております」

「なんだと?」


 夕食の時間になりました、と書斎まで呼びに来たカーラは食堂に案内している間も、エステルの事は何も話さなかった。ただ、自分がどれだけ主人のいない邸をいつ帰ってきてもいいように整えていたのかと自慢げに語るばかり。

 さすがに辟易したイルハルドが足を速めたのを自分が不快に思わせたとは感じずに、久しぶりの邸での食事が楽しみなのかと都合よく解釈するくらいには、カーラも浮き足立っていた。

 そうして食卓に着き、エステルを待つ様子を見せたイルハルドに、カーラは残念そうな表情を作って告げたのだ。


「ここ最近のお嬢様は、離れから出るつもりがないご様子で。お茶会などの招待を頂いた際には私の娘を代わりとして出席させておりました」

「ルディアーナでございます、旦那様」


 明らかに不機嫌だと分かるイルハルドを前にしても、しおらしい様子を崩さないカーラは、あろうことかエステルが離れに引きこもっているのだと言ったのだ。当主である、イルハルドの前で。

 仕方なく、という表情は作ってみせたものの、ルディアーナの方はそこまで上手く表情を取り繕えなかったようだ。

 エステルに変わって自分が伯爵家の娘であるような扱いを受けていることへの喜び、そして初めて見たイルハルドの怒りに当てられた恐怖、いろんなものが混じりあった挨拶の最後はか細い声に変わり、引き攣った笑みを浮かべていた。


「カーラ。私が何も知らないと思っているのか」

「仰る意味が分かりかねます」

「お前がエステルをどのように扱っていたかを知っている、そう言えば分かるのか?」

「それは、お嬢様が離れにずっといるから……!」


 ここまで、動じる様子を見せなかったカーラが、初めて焦ったように口を開く。それでも、エステルが自ら離れにいるという体裁は崩すことをしなかった。


「確かに妻の療養には付きっきりで看病をしていたのだから、離れにいただろう。

 けれど、今この邸にいないのは、カーラ。お前がエステルを離れに押しやったからではないのか!?」


 声を荒げたイルハルドは、ガタリと大袈裟なくらいに音を立てて椅子を引き、食卓を離れた。つかつかと大股で歩き始めたイルハルドの事を制止できる使用人など、他にいるはずもなく。その姿が完全に食堂から消える前にカーラが動いた。

 ルディアーナからの報告で、エステルがこの邸を飛び出したと知っているカーラは、イルハルドを離れに近づけるわけにはいかないと必死に声をかける。


「旦那様、どちらに……!」

「エステルが離れにいるというのならば、私が行くまでだ」

「お待ちください! そちらには……!」


 エステルはいないのに。そう続けたくとも、カーラにはできるはずもない。言ってしまえば知っていたのに捜索をしていないこと、主人であるイルハルドに何の報告もしていないこと、エステルの扱いなど、知られてはまずいことばかりが芋づるのように伝わってしまう。

 自分が必死で侍女の作法を学び尽くしてきたのは、未亡人となり行くあてもなかった自分を拾い上げてくれた優しいこの方の後妻になり、唯一となるためだ。宰相補佐をしているイルハルドの後妻なら、伯爵家といえども優雅な生活は約束されている。

 そのためにやりたくもない掃除や炊事だって誰よりも意欲的に見えるようにこなしてきた。娘のルディアーナにだって、前のようなひもじい思いはさせたくない。自分が後妻となれば、今よりももっといいドレスだって着せてやれる。

 だからこそ、自分の立場の邪魔になるエステルを上手く離れに押し込められたというのに、まさかこんなタイミングでイルハルドが帰宅するとは。


「エステル! 父だ! 帰って来たぞ!

 顔を見せてはくれないか、エステル!」


 イルハルドが書類仕事ばかりしていたとしても、女性であるカーラの足よりは速い。当然、離れにはイルハルドの方が先に着いた。そうして、ドンドンとドアを叩き、大声をあげる。

 周りの使用人たちもその騒ぎに気付いたようで、どうしたのかと様子を伺うように一人二人と姿を見せ始めた。

 これはいよいよまずいとイルハルドを止めようとしたカーラが動くよりも早く、ドアを叩き続ける背中に声がかかる。


「旦那様、いかがなさいましたか」


 かっちりとした燕尾服に身を包み、直立不動で声をかけたのは、茶髪の男性。日に当たった加減で緑が透けて見える髪は、短く整えられている。普段は柔らかく細められている目元が、今は訝し気な視線を辺りに向けている。


「ハンス!」

「領地より、ただいま戻りました。して、侍女長までついていながら騒がしいですね」


 宰相補佐として家に帰らず働くイルハルドに代わって、領地の様子を見て来て欲しいと頼まれたのは、しばらく前。視察自体は順調に終わったのだが、帰ろうとするたびに長雨で土砂が崩れて道を塞がれてしまったり、復旧を待っている間に水害が発生したりとなかなか帰ることが出来なかった。

 その都度主人であるイルハルドに使いを出し指示を仰いではいたものの、ハンス自身もこの邸に戻って来たのはずいぶんと久しぶりである。

 庭は前よりも荒れているし、使用人たちだってハンスが見知った顔はない。侍女長のカーラは顔色を悪くしているが、この状況に心当たりはあるだろう。

 そんな思いを込めて向けた視線で、更にカーラは顔色を悪くさせた。開いた口をパクパクさせているだけの様子では、ハンスの求める答えは返ってこなさそうだ。


「ハンス、戻ってきて早々ですまないが離れの鍵を持って来てはくれないか。

 エステルが、ここから出るつもりがないと言っているそうだ」

「エステルお嬢様が、ですか?」


 ハンスの脳裏に浮かんだのは、母親譲りのまばゆい銀髪をなびかせながら、父親と同じ碧の瞳を真っすぐ合わせて話す少女の姿。家令という邸の使用人の中でも高い地位を頂いている自分と、ただ話すのが楽しいのだと朗らかに笑う少女が、このように父親の叫びを聞いても姿も見せず、どうして離れにこもるような事態になっているのか。


「……失礼。旦那様、こちらに鍵は掛かっておりません。

 エステルお嬢様、ハンスです。こちら、お開けしてもよろしいでしょうか」


 つかつかとドアに歩み寄ったハンスは、ドアノブがそのまま抵抗もなく動くことを確認した。

 先ほどまでのイルハルドの様子から、そんな些細な事でも確認できないほどに焦っていたのだと推測したハンスは、ドアを指一本が入る程度だけ開いてから中にいるであろうエステルに向かって声をかける。

 疑問の形を取っていても、これは開けるという意思表示だ。ところが、そのまま待っていても肯定の言葉はもちろん、物音だって聞こえてはこない。

 そこからのハンスの行動は早かった。エステルの返事がないことを合図としたように、ドアを勢い良く開いて大声をあげる。


「エステルお嬢様! ハンスの負けでございます!」


 それは、幼いエステルとかくれんぼをした時の合図。小柄なエステルは使用人たちの協力もあって、ハンスでは見つけられないところによく潜んでいた。貯蔵庫の樽や、洗濯物の籠の中になど、どうして入っていると思おうか。

 相手も動き回っているのだから無理はないけれど、見つけられない事にはハンスは落ち着かない。ある日、何の気もなしに自分の負けだと呟いたところ、ひょっこりとエステルが姿を見せた。その幼い体全手を使って嬉しさを表現しながら。

 それから、かくれんぼの時にはハンスが負けた、と宣言するのが終わりの合図となった。

 だからこそ、これを告げればいつものようにエステルが姿を見せてくれるのではないか。


「エステル、お嬢様……?」


 そんなハンスの願いもむなしく、離れにはただ静寂があるだけだった。



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