8.
「イルハルド様」
動きやすい簡素な装いに身を包んだ青年が声をかけたのは、両手に書類を抱えて歩く壮年の男性。
イルハルドと呼ばれた男性の深い湖を思わせる青い髪は櫛こそ入れられているようだが艶は失われており、碧の目の下にある隈がくたびれた印象を与えている。声をかけた青年にも同じように隈があるからか、振り向いたイルハルドからも苦笑が向けられた。
目的の場所は一緒なので、そのまま雑談のように言葉を交わしながら歩き始める。青年の抱えている書類もイルハルドと同じような量だったが、一番上に仕分けられていた封筒に気づいて目を細めた。
真っ白で装飾もないシンプルな封筒からは持ち主がどんな人物かが読み取れない。使われている紙は上質なものだとは分かったので、物にこだわりがないという訳ではなさそうだ。
印のない封蝋では家名までは分からないが、青年が大切そうに扱っているのだから、きっと良い便りなのだろう。そう考えていたイルハルドは、青年が自分の視線を伺うような様子を見せていたことに気づかなかった。
「ご息女から、お手紙が届いておりますよ」
執務室に入り、書類を机の上に置いたそのタイミングで、青年から先ほどの封筒を手渡させる。青年に向けた便りだったら、今後の仕事の割り振りには見直しが必要だと考えていたが、そうではなかったようだ。
「そうか、あちらの棚に入れておいてくれ。ウィン」
「イルハルド様」
自分の娘からの手紙だと分かった途端、あからさまに興味を失くしたイルハルドに向けて、ウィンと呼ばれた青年は声色を変えた。上司だろうと年上だろうと、家格さえ気にもせずに思ったことは素直に告げる性格は、人によっては疎まれることもある。
イルハルドは性格がどうであれ仕事が出来ればいいと思うタイプなうえに、自分とは違う視点を持つウィンの事は好ましく感じていた。
だからこそ、ウィンが声色を変えた程度では咎めるような事はせず、その言葉の続きを待つように視線を向けるだけに留まった。
「差し出がましいとは存じますが、あちらの棚はすでに満杯です」
「ああ、そうだったか……ではこちらの、」
「そうではありません。一度くらい、読んで差し上げたらいかがですか」
書類と向き合ったまま、視線すら上げようとしないイルハルドに、今度こそウィンは声に感情を乗せた。
王都のみならず、国に感染症が広がっているのだから忙しいことは分かる。けれど、イルハルドが二年以上も、家に帰る時間すら割いて仕事に没頭しなければならないほどではないはずだ。
宰相からの指示のもと、適切な人員だって配置されているし、一人が抱え込まなくてもいいようにきっちり仕事の分担はされている。その補佐であるはずのイルハルドだけ激務、というのもおかしな話だ。
ウィンは、自分が下働きであるからこそどこの部署にだって行ける、というある意味の特権を活かして、宰相にイルハルドの現状を伝えたことだってある。そのときは善処する、という声をもらったが今の今まで改善されるような兆しはない。
普段のイルハルドは仕事はきっちりこなすし締め切りだって忘れたことはないのに、娘からの手紙だけはこのようにして後回しにしているのだから、ウィンが非難めいた感情を向けるのも無理はないだろう。
「知ってますよ。……あちらに置かれたきり、読まれたことはないと」
さすがにご息女が不憫です、とは言葉にせずともウィンがその意図を込めたうえでの発言だと読み取れるくらいには、まだ頭は回っているようだ。
イルハルドは降参だとばかりに書類から目を上げた。自分と向かい合うように立っていたウィンは、その視線を受けて勝ったとばかりにニヤリとした笑みを浮かべている。
「次の書類は、こちらの手紙を存分に読まれた後にお持ちします。
ついでにお茶と軽食も持ってきますから、全部召し上がってくださいね」
いつの間に強かになったのか、とウィンの背中をため息交じりで見送ったイルハルドは、自分が指示した棚を見る。
たしかに、娘からの手紙は随分と目を通していなかった、と実感したのは、棚のひとつが白い封筒で埋め尽くされていたから。同じ封筒だという事にすら、こうして見るまで気づかなかった。
「今、私がするべきはこの手紙を読む事、か」
妻であるクレアが亡くなってからしばらくして、この国にはある病気が流行した。発生源も、治療の手立ても全く分からなかった病気は、じわじわと国全体に広がっていったのだ。
魔法があるためか、怪我や病気に対してどうにかできるだろうと思っていた希望はあっさりと打ち砕かれた。症状の緩和は出来ても、魔法では完治するに至らなかったからだ。
それからというもの、王族を始めとして、この城にいる誰もが昼夜を問わずに駆け回り、わずかな手掛かりでさえ無駄にしないようにと議論や実験を繰り返した。
どうにかその流行を必死に食い止めようとした努力が実ったのか、最近では開発した薬によって快方に向かう人が増えたとか、犠牲者の数が減っているという嬉しい報告が上がって来るようになった。油断はできないだろうが、ようやく終わりが見えてきている。
それを分かっているからこそ、ウィンは手紙を理由にして休憩を取らせるような小芝居をして見せたのだろう。余裕が、出てきたのだと。
年下に気を遣わせてしまうなんて、とも思ったけれど、娘からの手紙を久しぶりに見る時間が作れたことに、張りつめていたものがゆっくりと解けていくのを感じたイルハルドが封を開ける。
けれど、書かれていたことは僅かに出来た余裕を吹き飛ばすものだった。
「イルハルド様、そんな血相を変えてどうしました」
「ウィン、私はすぐに帰宅せねばならない」
「いきなりどうしたんですか!?」
温かいお茶と軽食を持って入室したウィンは、さっきまでとはまるで違った様子を見せるイルハルドに目を丸くした。家族を大切に思っていることを知っているからこそ、手紙をじっくり読めるような時間を置いたというのに。
そうして、ぐっと握りしめていた手紙がイルハルドから差し出された。
「……お読みしても?」
「ああ、構わない。私の読み違えであって欲しいとは願うが」
許可を得てから、ざっと目を通していくウィンの顔色が、どんどんと悪くなっていく。それを見てイルハルドは、どこか他人事のようにこの手紙に書かれていることは真実なのだ、と理解した。
「イルハルド様」
「分かっている。もはや、何の弁明も出来るはずがない」
「ならばさっさと帰ってください! あとは俺がどうにかしますから!」
ぐっと拳を握ってから深く頭を下げたイルハルドは、ウィンから返してもらった手紙を握りしめて執務室を飛び出した。この二年ほどあまり運動をせずに机にかじりつく時間が増えていたことは分かっていたが、自分の思っていた以上に早く体は悲鳴を上げた。
息も荒く王城の馬車乗り場に現れたイルハルドを見て御者はギョッとした顔をするが、それが旧知の人物だと分かるとホッとした様子で近づいてきた。
「フォルカー伯爵、どうしました?
そのように息を切らせて……」
「私は、邸に戻らねばならない。すまないが、馬車を……」
「それでは、ちょうど準備の終わったものがあります。少し古い型ですが」
「何でも構わない。出してくれ!」
御者の指示のもと、馬車の準備はテキパキと行われていく。普段と比べるとその準備の速さは比べるまでもないが、とにかく早く邸に帰らねばならないと思っているイルハルドにとって、その時間はとてつもなく長く感じた。
御者の案内を待つこともせずに馬車に飛び乗ったイルハルドからは、いつも冷静な宰相補佐の姿など見る影もない。
だが、そんな外聞を整えている余裕を持ち得ていないイルハルドは、準備に指示を出す御者の声を聞きながら、自分が握りしめたことでしわしわになってしまった手紙から目を離せないでいた。
「エステル……!」
堪えるように噛みしめていた口から思わず漏れたその名前が合図となったように、馬車はゆっくりと動き出した。