7.
幸せな夢から覚めたエステルの目の前には、今までよりもたくさんの光が集まっていた。ぼんやりとした意識のエステルは、自分がまだ夢の続きを見ているのだと思ったくらいのまばゆい光。
目を擦ってみてもなくなることはないし、目をぎゅっとつぶって瞼を閉じてもうっすら明るさを感じるくらい、辺りに集まっているようだ。
さすがに目を覚ましたエステルは、のろのろと窪みから外に出る。まるで木が光っているように見えるくらいの集まり方を見て、目を丸くしたエステルがその様子を眺めていると、くつくつと低い笑い声が耳に届いた。
「ほう。昨日歩き回ったからか、妖精たちがお前の存在に気がついたようだ」
振り返った先にいたのは、昨日の青年。これだけの光が集まっていることに感心したような表情をしているが、集まった光を見て呆然としているエステルの事は楽しそうに見ている。
「あの、どうすれば……!」
「さてな。ほら、お前の騎士様が不貞腐れているぞ」
昨日までは、エステルの近くにある光は一つだけだったからすぐに分かった。ぐるりと散策している時にも、遠巻きに漂っている光があることだって知っていた。母の事を知っている妖精だったら、自分の様子を見に来たっておかしくないと思っていたから。
ずっと傍にいてくれた光、それを騎士のようだと言ったのは昨日の事だから、エステルだって覚えている。いなかったはずなのに青年が知っているのは、おそらく周りで聞いていたであろう妖精の誰かが教えたか、それともどこかでエステルの様子を伺っていたか。
今はそれを問いただすよりも、たくさんのなかに紛れてしまったという、自分にずっと寄り添ってくれていた優しい光を見つける方が先だ。
「不貞腐れている、って言われても……」
青年は親切な口調で様子を教えてくれているのかもしれないが、エステルは本当に不貞腐れているとは思えなかった。ただ、自分の傍から離れてたくさんの光の中に紛れてしまっているのは間違いない。
ずっと傍にいてくれた光だといっても、ここまでたくさん集まった光に違いはない。普通なら見つけるのは難しい。
難しい、のに。すっとたくさんある光の中のひとつに手を伸ばしたエステルが迷いなくとった光は、他の光たちに隠されるような動きをされていた。ひとつの光を選んだことで、周りの光は弾けるように散っていったので、残されたのはエステルが手を伸ばしたひとつだけ。
「正直、光だけだと見分けはつかないわ。けれど、この光があなただって思えたの。
ねえ、わたしの答えは間違っているかしら」
申し訳なさそうな様子でふよふよと近寄って来た光に、エステルが話しかける。その場に座り込んで丸くした手を前に出せば、迷ったようにふらついた光がそこにすっぽりと収まった。
「離れで生活するようになってから、不思議に思っていたことがあるの。
どれだけ厳しいことを言われても、強く棒で叩かれても、心安らぐ時間があったこと。自分で自分を守るための幻かとも思ったこともあったんだけど、ここに来て分かったわ。
あなたが、守ってくれていたんでしょう?」
自分の目線まで手を上げたエステルは、まだ姿を見ることが出来ない光に向かってにっこりと微笑んだ。自分には姿が見えなくても、この優しい光と向かい合えて、目は合っている。そう、エステルは確信していた。
「ありがとう。わたしの光。
そんなあなたのことを、間違えるはずがないのよ」
「正解だ」
ぶわっと溢れた眩しい光が落ち着くと、エステルの前にはまた違った色合いを持つ青年の姿があった。
少し襟足の伸びた金髪が、まわりにあるたくさんの光を反射してキラキラと輝いている。不思議そうにあたりに彷徨う視線の色は、エステルと同じ碧。
シンプルなシャツにベスト、パンツにブーツという装いは全身が白銀で統一されてるような青年とは違って、エステルにとって馴染みがあるような服に近い。茶色や緑といった聖域の中でもよく見る色でまとめられた服装に、金で縁取られた刺繍はとても映えている。
自分の姿を観察するようにあちこち忙しなく動いていた青年の瞳が、エステルの姿を捉えた。
ぶわっと一瞬にして赤く染まった頬を片手で隠すように覆いながらも、エステルの前で屈んだ青年は、感極まった様子で口を開いた。
「やっと、話せるな」
「え、ええっと……?」
昨日から、いったい何回驚いたのだろう。そのたびにこれ以上驚くような事はないだろうと思っていたのに、今日だけでまた最高値を更新したようだ。ドキドキと激しく脈を打つ心臓を宥めるように、そっと自分の胸に手を置いたエステルは視線を上げる。
目の前で嬉しそうに顔をほころばせている金色を持つ青年は、エステルと視線が合うたびにそれはもう、とろけるような笑みを浮かべるのだ。
その顔を見ただけで、エステルもじわじわと顔に熱が集まっていくのを感じるくらいには、青年の感情が嬉しさと愛しさで溢れているのが分かる。
「お前が望んだんだろう? 姿を見たいと」
やれやれとでも言いたげな青年から声がかかったことで、ハッと我に返ったエステルはその言葉の意味を理解すると同時に思わず声を上げた。
「それじゃあ!」
「ああ、そいつはずっとお前の傍にいた。名を、呼んでやるといい」
ずっと傍にいてくれた光。その姿を見たいと、言葉を交わせたならと願っていた。それが、まさかこんなにも素敵な姿をしていたとは。妖精だと分かっているけれど、そう聞いていなければ人間と変わりないように思える。エステルよりも少しだけ年上のような見目は、とても整っているけれど。
お茶会や交流の機会をルディアーナに奪われていたエステルにとって、身近な男性といえば初老に近いゼストだけだった。同世代と言葉を交わした経験はほとんどないと言える。
ずっと嬉しそうな笑顔で自分の事を見つめている青年に緊張はしたけれど、呼んでやるといいと言われた青年の名前を、聞いていない。よし、とひとつ頷いてからエステルは口を開いた。
「名前、ってあなたの? 教えてもらえるかしら?」
「その言い方はずるいですよ。
名前は、ないんだ。だから、呼んで。俺だけの名前を」
首を傾げて問いかけたエステルに、青年がはぁと深いため息を吐く。それはエステルたちのことを見守るように横に立っている白銀の青年に向けたものだった。ただ短く、用件だけを告げるような青年の声にも涼しい顔を崩さないからか、今度は小さく息を吐いた後に青年はエステルに向き直った。
昨日から聞いていた体の奥を震わせるような深みのある声とは違って、目の前の青年はまだどこかに幼さの残る声。今さっき初めて聞いたはずなのに、ずっと昔から聞いていたみたいに体に染みわたっていく声がエステルに求めるのは、自身の名前。
「ずっと、わたしを守ってくれた光。
……ルクス。あなたの名前は、ルクスよ。どうかしら?」
「俺の名前は、ルクス。
ありがとう、主。大切にする」
「主、じゃないわ。わたしはエステルよ」
古い言葉で光という意味を持つ名前。それは、母から教養として教えてもらった事柄のひとつ。母の縁でこうして妖精と巡り合うことが出来たのだから、少しだけでも母との関わりも持っていたいと思ったエステルの脳裏にふっと浮かんだ単語を、名前として告げた。
名前をもらったルクスは、今までで一番嬉しそうに微笑んだ後、エステルの手を取ってまだ火傷の痕が残る手の甲に、そっと触れるだけの口づけを落とした。
途端に、ボンっと音が聞こえそうなくらいに顔を真っ赤にしたエステルは、頭の中が真っ白になりかけたが、それでも引っかかった一言にだけはどうにか、言葉を返すことが出来た。
そうして名前を聞いたルクスがエステルと呼んだことで、今度こそ動きを止めてしまったのだが。
「さて、それでは行くか」
全身真っ赤になったんじゃないかと感じたエステルが、どうにか平常心を取り戻した頃に、青年がすっと立ち上がった。
ルクスはそれを見て当たり前のように立ち上がり、エステルに向かってそっと手を差し出してくれた。
反射のようにその手を取ったエステルがふらつかないようにと、当たり前のように支えてくれたルクスにお礼を伝えたが、肝心なところが分からないままだ。
「行くって、どちらにですか」
一体どこに行くというのだろうと首を傾げたエステルは、青年の言葉を聞いて、当初の目的を思い出した。
「お前が望んだんだろう、エステル。
家に帰るのだと」
「え、あの……」
「なんだ、聞こえなかったのか」
「そうではなくて! わたしの名前を」
お前、としか呼ばれていなかったのに、青年はエステルの名を呼んだ。ああ、と今更思い至ったようについ、と目を細めた青年は、エステルを支えるように隣に立つルクスの方を一度見てから、エステルに視線をずらす。
「愛し子とまではまだ呼べぬ。が、妖精の姿を見られるようになったのだ。
お前、では格好がつかないだろう?」
「大丈夫、エステル。あれ、あの方なりの照れ隠しだから」
「……聞こえているぞ」
くすくすと笑うルクスに指摘された青年は、ふいっと背中を向けてそのまま歩き始めてしまう。
慌てて追いかけたエステルの手をそっと取ったルクスは、安心させるかのように優しくその手を包み込んだ。