63.
妖精王との話が思っていたよりも長くなり、予定していた帰宅時間よりも遅くなってしまったエステルは、小走りで邸へ向かっていた。聖域から街中に戻ってくると、顔馴染みや隣人からちょこちょこと声をかけられていたが、エステルの急いでいる様子を見て、簡単な挨拶を済ませるだけで別れる人がほとんどだった。隣にルクスがいないからか、エステルが会話を切り上げても誰もそれを咎めなかったし、早く帰ってあげなさいと会釈だけで終わらせる人すらいた。
エステルとルクスが共にいるというのはこの街の、特にフォルカー家に近いところに住む人にとっては当たり前の認識になっていた。その事に気付いたエステルの足は、先ほどまでよりも軽やかに家路へと進んでいく。ルクスの顔を少しでも早く見たいのは、エステルだって同じなのだから。
「ただいま帰りました。
……あの、みんな、どうしたの?」
滅多にないエステルだけの外出だけど、それでも出迎えてくれるのはルクスが一番で、次になるのはだいたいがアーシェ。なのに、今日は二人ともその姿はなく、代わりのように玄関ホールに立っていたのは、少しくたびれた様子のハンスだった。
イルハルドについていることが多いハンスだから、エステルの出迎えに顔を出すことはほとんどないのに、今日は一体どうしたのだろう。周りにいる使用人も少ないし、何よりハンスだけでなくみんなが疲れた顔をしている。
「お帰りなさいませ、エステルお嬢様」
「ハンスがこの時間に出迎えなんて珍しいわね」
父に何か問題でもあったのだろうか、と表情を曇らせたエステルを見て、ハンスは申し訳なさそうに眉を下げた。
「他の者が少々、立て込んでおりまして。申し訳……」
「エステル!」
「ルクス!?」
自在に操る風のように、びゅんと勢いよくエステルの前に姿を見せたルクス。その表情は、今朝から不貞腐れていたことなどまるでなかったように、満面の笑みで彩られていた。
その様子を見て、ハンスをはじめとした使用人が一様にホッとしたように力を抜いたことは、ルクスに抱きしめられているエステルには見えなかった。
「予定よりも遅くなってしまって、ごめんなさい」
「それは、いいけど……その、さ」
何かを言いたそうにしながらも、もごもごと言葉に詰まった様子を見せるルクスは珍しい。ひょこっとルクスの腕から顔を出したエステルは、物珍しさもあってじっと目の前の整った顔を見てしまう。
ますます言葉に詰まったうえに顔を真っ赤にしているルクスだったが、エステルを見つめる碧には、何かを決めたような光が見えた。その瞳の光は、宿っている熱はもしかしたら自分も同じなのかもしれない。そう感じたエステルだったが、ルクスに問いかけるよりも先に咳払いが響く。
「エステルお嬢様。夕食の支度は整っておりますが、いかがいたしますか?」
「お父様は、泊まりで仕事だったわよね」
「各部署からの報告書が上がる時期ですからね。しばらくは、共に夕食を取れない事を嘆いておいででしたよ」
こほん、とまたひとつ咳払いをして会話に入ってきたハンスに、ルクスは何も言わなかった。それどころか、ハンスが話し始めると同時にパッと腕を広げて、エステルから少し距離を取る。とたんに冷たく感じる背中に少しだけ寂しさを覚えたエステルだったが、困ったような顔をしているハンスに向き直った。
「今朝、お父様にも謝られたわ。もう、気にしていないのに」
宰相補佐として、忙しい身だというのはエステルにも分かる。けれど、その時間を割いてまで共に食卓に着こうと決めたのは、他ならぬイルハルド自身。自分に課しただろう約束を守れない事に申し訳なさを感じているらしく、今朝エステルが邸を出る時にも、その事を謝られた。
イルハルドが気にしているのは、長らくエステルを一人きりで食卓とも呼べない所で生きるギリギリの食事をさせていたからだろう。
あの頃の細木のようだと揶揄された手足は女性らしい丸さを帯びており、常に荒れていた指先だって、もう手入れが行き届いているのに。
「でも、それならいただいてしまおうかしら。ルクスも、それでいい?」
「うん。それで、その……」
エステルをその腕で囲う代わりに、服の袖をきゅっと握られる。そんな迷子のような顔をしなくても、エステルがルクスの隣から離れることなどないというのに。
「エステル。食事の後に、ちょっと時間もらえないかな。話したいこと、あるんだけど……」
「もちろんよ。わたしも、ルクスと話したいもの」
にっこりと笑って告げたエステルに、ルクスはようやく安心したように肩の力を抜いた。ほわっとした笑顔を浮かべながら、スキップするように軽やかな足取りで食堂へと向かって行った。
その背中を見て、安堵の息を漏らしたのはハンス。
「エステルお嬢様がお帰りになる予定のお時間の前から、そわそわとこちらで待っておいででしてね」
「それは……申し訳ないことをしたわ」
「少し席を外したタイミングで、お帰りになられたものですから……」
苦笑するハンスとルクスの出迎えた時の様子、そして疲れている様子だった使用人たちの温度差に、納得したエステルだった。
これは今日の話をする前に、まずルクスにきちんと説明しなければならないだろう。これから夕食で、その後にルクスとの話なのだからきっと長くなる。明日の予定は何だっただろうか、とスケジュールを思い出しながら、エステルも食堂へと向かった。
「それじゃあ、エステルまた後で」
「ええ。用意が出来たら呼ぶわね」
ルクスと出逢った当初は出来なかった、魔力を使った会話。それが、ヴィオラからレッスンを受けたり妖精王やルクスからコツを教わったりした結果、邸内だったらルクスとどれだけ距離が離れていようとも、難なく会話をすることが出来るまでになった。
もっと上達すれば、街中でも使えるようになるそうだけれど。気配は読み取れるようになってきたエステルだが、会話ができるまでにはもう少し練習が必要なようだ。
「薔薇には負けるけど、星空でも悪くないよな」
「ルクス? 星空がどうしたの?」
「ん、こっちの話!」
食堂で別れる時に、ポツリとルクスが何かを呟いた。肌寒い季節ではないし、星空を見ながら話をしたいという事だろうか。ルクスに確認しようにも、またねと背中を向けて行ってしまったので、声をかけるには少し遠い。
後で聞けばいいか、とエステルも準備のために自室に戻る。聖域ではあまり動き回っていないが、邸に戻ってくる時に小走りだったからか少しだけ汗をかいている。夕食前に湯あみを済ませようかと思っていたけれど、あの様子のハンスたちをそのままにもしておけなかった。
ルクスはたぶん気にしないと笑うだろうとは想像がついたけれど、エステルとしては、好きな人の前、しかも二人きりで話すとなれば近い距離なのだから、気にするなという方が無理な話だ。
身支度を整えると一緒に、自分の考えを整理する時間も欲しかったというのもあるのだが。
「ごめんなさい。待たせてしまったわね」
「ん、いいよ。これもらって来てたから」
結果として、エステルは思っていたよりも長く時間を費やしてしまい、慌ててルクスに連絡をした。そのルクスも、エステルからの連絡の後、すぐに向かうのではなく厨房に行って、ちょうど良く冷えたジュースと温かな紅茶、それから少し摘まめる焼き菓子を用意してからやって来た。
窓の傍にあるソファーに座り、外の景色をぼんやりと眺める。ここはエステルのお気に入りでもあり、妖精たちがよく遊びに来る場所でもある。
はい、と差し出されたバスケットからジュースをもらったエステルが落ち着いたのを見計らって、ルクスが隣に腰掛けた。
「星、綺麗ね」
「そうだね。……ちょっとだけ、ムカつくくらい」
先ほど別れ際に言われた星空、が気になっていたからか、エステルはついっと視線を空へ向ける。流れ星こそ見えないけれど、視界に広がるのは満天の星空。
雲一つない空はよくあるけれど、ここまで星がたくさん瞬いている夜空を見るのは久しぶりだ。
「ムカつく、って。何かあったの?」
ルクスがそういう事を口にするのは、滅多にない。サロとのやり取りだって、じゃれているようなものだ。お互いがそれを分かっているような態度を取るのは、見ているだけのエステルでも分かる。
だからこそ、エステルはルクスからその言葉が出たことにとても驚いて思わず体ごと向き直った。
いつものように安心させるような笑顔を浮かべていると思っていたのに、怖いくらいに真剣な顔をしたルクスがいた。
「ルクス……」
「エステル。俺、どうしても言いたいことがあるんだ」
整った顔立ちは、表情を無くすと少しだけ恐ろしくもある。今までルクスが見せたことのない表情に、エステルは息をするのも忘れて釘付けになった。
固まったエステルをよそに、拳一つ分開いていた距離を詰め、肩が触れ合うほどに密着したルクスが、低くなり始めのまだ少しだけ高さの残る声で耳元に囁いた。
「俺、エステルが好きだよ」




