6.
「好きにしていいって、言ってくれたものね」
あまりの情報の多さに、しばらくその場で座り込んだままだったエステルは、ゆっくりと視線を巡らせた。
水場の脇にある背の低い草に生っている赤い果実を見つけたとたん、空腹を主張するようになった音は、自分のお腹からだ。
周りをふわふわ漂っている光が妖精だと知った今では、さすがに恥ずかしくなったエステルの頬は、ほんのりと赤く染まる。
ごまかすようにさくさくと大きく音を立てながら草に近づいていく。生っているのはどれも艶々していて、しっかりと膨らんだ実ばかり。食べる、という行為に対して楽しいと感じたのは久しぶりだと沈みかけた気持ちを追い出すべく、緩く頭を振った。
「これにしましょう。
……うん、甘くて美味しいわ」
手に取ってみれば小ぶりのベリーだったけれど、膨らんだ実はじゅわりと甘くて、瑞々しさが口の中を満たしていく。甘いだけではなく僅かに残る酸味が後味をさっぱりさせてくれるのに少しだけ物足りなさを感じてしまうから、ついついもうひとつ、と手を伸ばしたくなってしまう。
片手にたっぷり乗せたベリーを味わいながら全部食べきり、満足そうに笑うエステルは、そっと光にも果実を差し出してみた。
「そいつ、って呼ばれていたけれど……どうかしら。あなたも食べる?」
否定するようにふわ、と舞い上がった光はエステルの口元へと移動する。そうしてさっきまでの指の動きをなぞるように、手の中で転がしている果実とエステルの口元を、行ったり来たりしている。
そんな動きを見れば、言葉がなくても伝えたいことは何となく分かる。
「わたしが食べろってことかしら。ありがとう、そうするわ」
エステルの答えに正解だというように大きく円を描いてみせた光は、エステルの肩を定位置としたようだ。まるで羽を休めるかのように静かに下りてきた光が寄り添ってくれたのを見て、エステルは嬉しそうに微笑む。
「姿くらい、なんて簡単に仰っていたけれど。何をすれば見えるようになるのかも分からないのよね」
つん、と軽くつつくようなしぐさを見せれば、じゃれるようにエステルの指の動きに合わせて揺れる光。触れることに驚いたけれど、肩に寄り添う感触もあったから不思議ではなかった。そこに確かにいる、と指の先から伝わるのに、その姿を見れない事がただただ残念でならない。
「お母様はいつも楽しそうにお話していらしたけれど……」
母は、姿が見えていた。それならば相手の妖精と会話が出来ていたのだろう。エステルの目の前にいるのが妖精だと分かっていても、瞳に映るのは手のひらに乗る程度の大きさしかない光だけ。
どんな姿なのかを想像すればとてもわくわくした気持ちになるけれど、自分の思い描いた姿と答え合わせが出来る時はやってくるのだろうか。
「小さい時に追いかけ回していたのは、あなただったのかしら。いつも遊んでくれてありがとう」
母が元気だった時でも、父は仕事で忙しかった。それでも、夜ご飯を共にすることはあったのに、母が病に倒れてからはその姿を見ることの方が珍しくなった。
だから、幼いエステルの遊び相手は母と、母の周りにある光だったし、それを分かっていたからだろう。光はいつだって走って追いかけられるような動きをしてくれていた。
あの頃、笑って過ごせていたのは母がいたからだというのはもちろんだが、遊んでくれる存在があったからだ。
感謝は、伝わっている。それは嬉しいが、やっぱり光としてではなく、妖精だと認識できるようになりたい。よし、と気持ちを新たにしたエステルの心を占めていたのは憎しみでも不安でもなく、希望だった。
「しばらくお世話になるのだから、この辺りの事を知らないといけないわね」
さっと立ち上がったエステルの視線と合わせるように、すいっと舞い上がった光は先導するように滑っていく。
「ふふ、ついてきてくれるの? 騎士様のようで心強いわ」
地図も目印もない森だけれど、きっとこの光が導いてくれるだろう。
そう思えば、足取りだって軽くなる。エステルは、近所の土地勘のある場所を歩く様な軽やかな気持ちで一歩を踏み出した。
それから、冗談のように告げた騎士様、がまるで本当だったのだと思えるくらい、光はたくさんエステルの事を案内してくれた。動きで何となく読み取るくらいしか出来ないのに、何を伝えようとしてくれているのかがうっすらとでも分かるようになったのは、姿を見るという目標に近づいたのではないだろうか。
自由に使っていいと許可を得た水場をぐるりと回り、朝の空腹を満たした箇所とは別にある果実のなる樹、日当たりの心地良い花畑を巡っても、疲れを感じることはなかった。
オレンジ色を帯び始めた日の光が、どれだけの時間エステルが歩き回っていたのかを告げている。それにようやく気付くくらい、エステルは夢中になってこの聖域を歩き回っていたのだ。
カーラやルディアーナのことだって少しも思い出すことなく、この時間までずっと心は躍ったまま。そうして、ぐるりと一回りして夜を明かした木の根元まで戻って来た。
「そういえば、わたし靴擦れがあったんだったわ」
昨晩の足の傷を思い出したエステルは、あの時感じたピリピリとした痛みを想像しながらそっと靴を脱ぐ。
あれだけ歩き回ったにも関わらず、起きた時には熱を持っていたしまだ血だって滲んでいた傷が、うっすらとしか分からなくなっていた。
「傷が癒えるまで、ってこういうことだったのね」
妖精は、魔法が使えると聞く。ならば妖精たちの住まうこの聖域では、幼い頃に勉強を止めてしまった自分では分からない魔法が使われていたって何もおかしくはない。
体が軽いのも、足の傷が気にならなかったのも、きっと魔法のおかげだろう。
「この調子なら明日にでも家に帰れるくらいに治ってしまうわね。なんだか、名残惜しいけれど」
本音を言ってしまえば、エステルだってあの家には帰りたくない。飛び出した挙句に無断外泊。父に話がいくのはしばらく時間がかかるだろうが、ルディアーナからカーラにはすぐに伝わっているだろう。
いくらエステルが母の形見のネックレスをルディアーナに壊されたと主張したところで、侍女長であるカーラが罰を与えると口にしたのならば、あの屋敷でエステルの味方となってくれる人物はほとんどいない。
ゼストは庇ってくれるだろうが、預かっているのは厨房であり、なにより口下手だ。それに、年だって取っている。エステルの代わりに棒で叩かれるような姿は、見たくない。
執事頭のハンスだったらカーラよりも権限を持っているけれど、最近は父の代わりに領地の経営に携わっているようで、あまり姿を見ていない。執事頭であるはずなのに家を管理できていない、とハンスを責めるのであれば、その言葉は丸々エステルにも当てはまる。
家の事だったら任せられる、と信用を得たうえでエステルを離れに縛り付けたカーラの手腕をさすがだと思うべきなのだろうか。
どちらにせよ、あの家に戻ったのならば、そう簡単に外出は出来なくなってしまう事だけは確かだ。
「また、姿を見せてくれるかしら」
思い出すのは、白銀の髪を風に遊ばせていた青年の姿。妖精たちの事を我らと呼び、エステルに寄り添ってくれている光と言葉を交わしていた時の物言いは、年長者というだけではないだろう。
聖域に滞在することを許してくれたこと、たぶん魔法を使って自身の傷を癒してくれている感謝。それはどんなに言葉を尽くしても伝えきれないかもしれない。
けれど、ここを去らないといけないのなら、もう一度直接言葉を交わして、精一杯の感謝を伝えたい。そう考えていたエステルの視界に、もう見慣れた光がふわりと飛び込んできた。
「気にするなとでも励ましてくれているのかしら。少しは、あなたの感情が読み取れていれば嬉しいのだけれど」
あの家に戻ったとしても、自分には見守ってくれる存在がいる。温かい感情が満たされていくのを感じたエステルは、昨晩と同じように木の窪みで眠りについた。
きっと今日は穏やかに眠れるだろう。そんなエステルの予想通り、たくさんの光に囲まれながら嬉しそうに誰かと会話をする自分の姿を、夢に見た。