58.
「あら、一雨来そうな空ね」
どんよりと暗い空には、たっぷりと水分を含んでいそうな重い雲がたくさん浮かんでいる。エステルの言葉に、アーシェもその暗さを確かめるようにゆっくり視線を空に向けた。
今日は聖域に行く予定だから、と動きやすい服装を用意してはいるけれど、このまま空模様が変わらなければ雨は降りだすだろう。そうなったら、少しだけ動きづらい服ではある。
「今日の予定はどうします?」
「みんなとても楽しみにしていたのよ。そのままにしてもいいかしら」
エステルがちょっとだけ申し訳ないような顔をしているのは、雨が降るだろうと分かっていても予定をずらそうとしない事にだろうか。自分だけの予定だったら、今日は外出を取りやめて邸で出来る事を選んだだろう。けれど、聖域に向かうのはエステルだけで予定を変更できることではない。
もちろん、それはアーシェも心得ているのでどうしようかと悩んでいるエステルに、ちょっとだけ選択を広げられる提案をした。
「では、少し裾の短いドレスにしておきましょうか。雨を跳ねさせませんよう」
「それは約束できないわ。だから、アーシェには先に謝っておくわね」
「もう。先に言われてしまったら怒れないじゃないですか」
きっと出来ないだろう約束を口にすることで、エステルの申し訳ないという気持ちを、別の方向へと向けることに成功した。
今朝、起こしに来てからずっと曇っていたエステルの表情に、ようやく笑みが戻ってきた。
アーシェの心遣いに気付いているのかどうなのか判断がつかないのは、普段のエステルの行動を知っているからこそだ。伯爵令嬢として必要なマナーを身につけたエステルは、その場に応じてきちんとした立ち振る舞いを見せる。けれど、邸にいて他の人の目がないところでは、離れに住んでいた時のように自由な行動を好んでいる。
ルクスという過保護な妖精が傍で離れず見守ってくれていることを知っているから、使用人一同は何も言わずに控えているのだ。
「そうだ、エステル様。少し話しておきたいことがありまして……」
アーシェが本当に怒っているわけではないと分かっていたのだろう。エステルはいたずらそうな笑顔を見せていたけれど、その言葉を聞いて不思議そうに首を傾げた。
「サロ。一緒に聖域に行かない?」
「僕が、一緒にですか」
ルクスと朝食を終えたエステルは、自室に戻ろうとしているサロを呼び止めた。ピタリと足を止めて困ったように笑っているように見えるが、どうして、と思っているのが感じ取れる。
おそらく、直前になって言い出したエステルの思惑が分からないからだろう。ルクスがスッと目を細めた事にも気付かないサロに、隣の光が忙しなく揺れている。
「もちろんよ。何か予定があったら、無理にとは言わないわ」
どうかしら、とあくまでサロの予定を優先しようとするエステルに、サロは若干の苛立ちを覚えた。サロが養子となり、フォルカー家の後継ぎのような立ち位置を得たとはいえ、長子はエステルなのだから。
けれど、それをそのまま口にして、気分を損ねたら家から出されてしまうかもしれないと思っているサロは、一度きゅっと口を引き結んで気持ちの波をやり過ごした。
そうして、気分が落ち着いたところでエステルの問いに答える。
「僕には、勉強以外の予定はありません。
……今日は通っている教室ではないようですが」
「そうね。元気な子が多い教室なのよ」
まだ勉強しなければならないことがたくさんあるから。そう理由をつけているが、頻度は少なくなってもサロがまだ同じ教室に通えているのは、おそらく急な環境の変化に配慮してくれたイルハルドの案だろう。
その教室に先日顔を出した時には、聖域を見学するという話は出ていなかった。希望が多いから、一度行ったら次が回ってくるまで時間がかかるとも聞いたので、今日はきっと違うところだろう。
そう考えたサロの問いかけに、エステルはその通りだと素直に頷いた。
「きっと、話ができる子もいると思うの。ね、来てくれないかしら」
「……僕が、役に立つのであれば」
「たくさん気がついてくれるもの。役に立たないなんてことはないから、大丈夫よ」
にっこりと笑うエステルに見えないように、サロはぎゅっと拳を握った。役に立たないなんて、大丈夫だなんてどうして言い切れる。
感情のままにそう叫んでしまいたかったけれど、用意をすると頭を下げてやり過ごす。一時間後に玄関で、と待ち合わせの約束を取り付ける朗らかな声が、今はサロの心をささくれ立たせるだけだった。
「エステル」
「ええ。アーシェからも聞いたけれど、きっと悩んでいるのよね」
くるっと急いで背を向けたサロを見ながらエステルが思うのは、きっと自分も同じような時期があったのだろうという事。伯爵令嬢としてだけではなく、妖精王の宿り木を管理するという任を預けられて立場が変わった自分と、伯爵家の後継ぎとして全く触れてこなかった分野の知識も詰め込まなければならなくなったサロ。
思うように進まない勉強に、それを身につけられない苛立ち。不満のような感情を持つのも、当然のことだろう。
「だからってエステルに当たるのは、どうかと思うけど。お前が謝るような事じゃないって」
「サロにも、見守ってくれている存在はすぐ傍にいるって、分かって欲しいわね」
「そしたら、エステルはもっと俺の事見てくれるよね?」
そっと取られた手は、ゆっくりと目の高さまで上げられる。そうして、わざとらしく指を絡めて握られた手の向こうから、エステルのことを覗くように上目遣いを見せるルクスに、ボンっと音がするくらい赤くなった顔を隠そうとした手も取られてしまう。恥ずかしそうに潤ませたエステルの瞳には、嬉しそうに笑うルクスの顔しか映らない。
もはや、日常のようによく見る光景に、若干の呆れを含んだ溜め息をこぼした妖精は、ふわりとその場を離れていった。
「お待たせしてしまいましたか」
「いいえ、ちょうどよ。わたしの用意が早く終わったのよ」
改めてサロと合流したエステルは、アーシェから渡された荷物を持って先に出る。雨が降りそうだと思った空模様は、一向にそのどんよりとした色を変えることなく居座っている。
どうにか、聖域から戻ってくるまで降らないで欲しいとは願うけれど、こればかりはどうしようもない。女性一人が入るには少し大きな傘を持たされたのはルクスがいる事と、聖域から戻ってくる時に子供たちを一人でも濡れないように傘の下に招くだろうエステルの考えを分かっている、アーシェの働きによるものだ。
「このような天気のなか、ありがとうございます」
「いえ。間に合ったようで良かったです」
天気を気にしていたのはエステルだけではない。妖精を見ることが出来るかもしれないと期待していた教室の子供たちと、たくさんの経験を積ませたい教師たち。その証拠に、教室の窓にはたくさんのお守りがぶら下がっていた。
「せっかくですけれど、雨が降ってくる前にお開きにしましょうか」
「そうですね。では、行きましょう」
子供たちからは不満の声が上がったが、雨に濡れて風邪を引いたら困るのは自分たちだ、と教師から何度も言われれば首を縦に振るしかない。
エステルは、元気のいい子が多いと言っていたが、思っていたよりも大人しく素直に聖域を見て回っていたので、サロの負担もそこまでではなかったようだ。
邸を出た時よりも少し気分が晴れたような顔を見せるサロに、エステルがそっと安堵の息を漏らす。
「ありがとう、サロ。一緒に来てくれたおかげで細かい話をすることが出来たわ」
エステルとしては、毎日のように顔を出している聖域だからこそ慣れ親しんでしまったこともある。
水辺のベリーが美味しいだとか、泉の水は透き通ってきれいだけれど、思っているよりも深いとか、木の洞は想像以上に暖かく居心地が悪くない事とか。
けれど、サロにとってはまだまだ目新しいものが多い場所だ。それは、子供たちに説明するときに存分に発揮された。
「僕は、まだまだ知識も実績もありません。勉強するくらいしか、出来ませんから」
「サロは筋がいいってヴィオラ様も褒めていたもの。大丈夫よ、自信もって」
自分が慣れてしまったからこそ気付かないことを率先して説明してくれるサロに、感謝を告げた。それは、まぎれもない本音だったけれど、落ち着いたはずのサロの気持ちに波を立たせるには十分な言葉だった。
「大丈夫、大丈夫だって言えばいいと思ってるんだろ!?」
それは、昔の自分が欲しかった言葉だったのかもしれない。
無意識に、サロに向けていた大丈夫。けれど、サロにとっては追い詰められるような気持ちになる言葉だった。早く一人前になって、自分を養子としたことを間違っていなかったと思って欲しいサロと、自分が出来たのだからきっとサロだって出来るようになると考えていたエステル。
イルハルドは、無理をするな、自分のペースでいいと会うたびに伝えていたけれど、同じような立場から出来るようになったエステルが近くにいる事、そして大丈夫だと笑顔を向けられるたびに。
焦りを感じているのだと、伝えられる人がサロにはいなかった。
「サロ、ちょっと待って!」
いつかのように走り出したサロの背中に慌てて手を伸ばしたが、エステルのその手は空を切るだけ。
先ほどまでサロの説明を聞いて目を輝かせていた子供たちは、不安そうにサロの消えた先を見つめている。
話し声こそ聞こえていなかったものの、走り去ったサロの様子からただ事ではないと判断した教師に子供たちの引率を、近くで様子を伺っていた妖精たちに道案内を頼んだエステルはサロの後を追いかけた。