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52.

「養子、ですか」


 静かに置いたはずのカトラリーから甲高い音が鳴る。ハッとした様子で自分の手元を確認したエステルの動きを見たが、イルハルドは言葉を続けた。避けては通れない話題なのだから、ここで全てを伝えてしまった方がいいだろう。そう判断して。


「もちろん、お前が今までこの家を大切に守ろうとしてくれていたのは、分かっている。分かっているからこそ、言えなかった」

「まずは説明。エステルも、それでいいよね?」

「え、ええ。お願いします、お父様」


 それまでずっと黙ってパイを食べていたルクスが、イルハルドの言葉を遮る。最近では鳴らすことのなかったフォークがお皿に当たる音。わざと鳴らしているのだと気付かないイルハルドではない。それは、硬直していたエステルも同じだ。名前を呼ばれてようやく動き出したエステルは、ぎこちない返事をするだけで精いっぱいだった。


「さて、それじゃあ話を聞こうか」


 食事をしている間に振られた話題だったが、そのまま続けるにはどうにも重すぎるので、ルクスの提案でまずは食事を済ませることとなった。

 イルハルドは頷くだけですぐに食事を再開したが、一度完全に動きを止めてしまったエステルの手が再び動き始めるまでには、それなりに時間がかかった。

 とはいえ、そんな状況をルクスが許すはずもなく、これが美味しいだとか、あれはどんな味なのかという話からエステルの前に出されたお皿を空っぽにさせていた。

 少しだけ申し訳なさを感じたイルハルドの感情は、おそらくルクスには筒抜けだったのだろう。エステルが落ち着いたのを見計らってかけられた声には、若干どころではなく圧があった。


「うちの子供はエステル、お前だけだ。そして、私はこれからもクレア以外を愛するつもりはない」

「つまり?」

「フォルカー家の子供はわたし一人だけ、ってことよ。だからわたしが家を守らないといけないの」


 ひとつ、自分の懸念していたことが消えたエステルはほっと息を吐いた。養子、と言われて最初に思い浮かんだのは、父の再婚だ。壮年に差し掛かっているとはいえ、宰相補佐として王城で立派に働いているし、伯爵家の当主でもある。後妻を迎え入れても何もおかしくないし、世間話のように見せかけて、遠回しに勧められているのだろうなと思う場面は何回かあった。

 だからこそ、後妻として迎える女性の子供を養子としてフォルカー家に入れる。そう言われるのかと構えていたのだが、それはエステルの早とちりだったようだ。


「その通りだ。だが、貴族の事を学んだ今なら分かるだろう、エステル」

「そうですね。家を継ぐのは、ほとんどが男性です。女性は、数えられるくらいしかいませんでした」


 すらすらと答えながらも、エステルが思うのは別のこと。あまり考えたくはなかった事が、とうとう目の前にやって来てしまったのだ。出来るなら、この場から逃げ出したいと腰を浮かせそうになったが、まずは父の話をすべて聞いてからだ、とぐっと自分を椅子に縛り付けるような気持ちで体に力を入れた。


「女性の場合は、大体が家に入ってくれる男性を選んでいるからな。女主人として家の取り仕切りをすることが出来る」

「それと、エステルが家を継ぐのは何が違うんだ?」

「エステルがこの家を継いだ場合は、領地の経営から社交界での振る舞いまで全てを一人でこなさなければならなくなる。良い伴侶がいれば分担も可能だろうが……」


 ちらりとイルハルドが視線を向けた先にいるルクスは、その意味を多少理解できるくらいには、エステルの傍にいて人間の事を学んでいる。エステルもまた、イルハルドの言葉にわずかに肩を揺らして反応した。

 少し前に聞いたルクスの気持ちには、変化はないようだ。そして、エステルは自分の気持ちを理解し始めているのかもしれない。娘の成長は嬉しく思うが、それとこれとはまた別なのだ、とイルハルドは自分を引き締めるようにひとつ咳払いをした。


「エステルはまだ成人したばかりなうえ、妖精の主であると知られている。中途半端に声をかけようものなら、前のような状況に戻りかねん」


 良い侍女長だと、思っていた。自分の目が見たい物だけを見ていたのだと痛感したのは、そう昔のことではない。だからこそ、もうあの時と同じような過ちだけはしたくない。

 それが、エステルに届く招待状を全て目を通すような過保護とも取れる行動に繋がっているが、当のエステルはまだそれを知らない。ヴィオラを通して出席しても大丈夫だと判断した物がエステルの手元に届いていることを知るのは、イルハルドの他には、執事頭であるハンスだけだ。


「ヴィオラ様との話の中で、少しだけ考えていた事ではありました」


 ぽつり、と囁くような声を落としたエステルに、ルクスとイルハルドの視線が向けられる。貴族としての勉強や、当たり前のことなど何も知らなかったエステルに、自分の持ち得る知識を全て教え込む勢いで伝えたのは、ヴィオラだ。

 何も知らなかった状態のエステルだったからこそ、今の自分の置かれている状況に違和を感じたのだろう。


「社交界に顔を出すようになって、多少は人の話の裏を読み取れるようになりましたから」

「……そうか。出来れば、そんな事を知らずにいてくれたらと願っていたが」


 宰相補佐としては、この国に妖精の主となる人物がいることは良い流れに繋がると思っている。魔法を使うこの国で、妖精たちが気にかける人物がいるのであれば、魔法を使いやすくなるのだから。

 けれど、ただ一人の父としては、娘にはそんな重荷を負わせることなく、ただ社交界という華やかな場を純粋に楽しんでもらいたいという願いだってあったのだ。それは、叶わぬ思いとなってしまったが。


「妖精王に後見人となっていただき、ルクスという共に歩んでくれる妖精もいます。けれど、わたし達に向けられる感情には、わたし自身が向き合わなければならないのだと」


 先ほどまでの囁くような声ではなく、しゃんと胸を張ったエステルの碧の瞳には、強い光が宿っていた。色は違えど、クレアも同じような光を持っていたな、とイルハルドの胸に懐かしいものがこみ上げてきた。


「ルクスがずっといてくれて、わたしに何もないように守ってくれているのはとても嬉しいの。

 けれど、人が向ける感情は、魔法を使っても防げるものではないのよ」


 例えば、ルクスに頼んで自分に向けられる悪意ある言葉を遮ることは可能だろう。けれど、その人に宿る感情は、言葉だけで向けられるものではない。目線や行動、胸の中で滾らせたものは、防ぎきれないはずだ。

 それは、妖精王の宿り木を管理する者として、妖精の主として自分がどうにかしていかなければならないものなのだと、エステルはもう理解している。

 正直辛いと思ったことだって少なくないけれど、伯爵家を守るのだからこれくらいは出来るようにならなければ、とそう思っていた。


「だがな、エステル。私が養子を取ろうと考えたのは、他にも理由がある」

「わたしが女性だから、ではなくてですか?」


 爵位を得たのだって、女性である自分が家を継ぎやすくするためもあるのだろうと思っていたのに。今のエステルでは、他の理由に思い当たるものがない。

 小さく首を傾げたエステルを見て、わずかに肩を揺らしたイルハルドは、深く息を吐いてから、真剣な眼差しを向けた。


「妖精王から正式に後見を受けた妖精の主よ。嘘偽りなく今思うのは、どんな事か」

「お父様……?」

「家を継ぐ、それも良いだろう。だが、心の底から望む事は、本当にそうなのか?」


 さっきまでとまるで雰囲気の変わった父に戸惑うエステルを余所に、イルハルドは疑問を投げかける。

 心の底から、そう問われたエステルはすぐに答えることが出来なかった。家を守る、そう思う気持ちに嘘はない。ならば、どうして自分はすぐにそう答えられないのだろうか。


「エステル。私はお前から先を選ぶ自由を奪いたくはないのだ。何も出来なかった父が、お前に出来ることはこのくらいでしかないのだから」

「いいえ、いいえ……! お父様は、良くしてくださっています」

「ありがとう。本当に、クレアに似て心優しい素敵な淑女に育ったな」


 エステルの目に浮かんだ涙は、きっと堪えきれなかった感情からあふれたものだろう。本当に、妻によく似ている。こうして、話したいことが増えていくのだな、とイルハルドは小さく笑う。

 あまりに先に逝ってしまった妻と話す時間は、きっとどれだけあっても足りないだろうが、今日のところは月に聞いてもらうとしよう。


「返事は、明日の夜に聞かせてくれないか。あまり時間を与えられずにすまない」

「分かりました。それでは、先に失礼します」

「ああ、こんな話をしてから言うような事ではないが、ゆっくり休みなさい」


 先に席を立ったイルハルドは、ゼストに頼みごとをしようと厨房に立ち寄った。エステルはきっと、自分の問いかけに答えるために頭を働かせるだろう。

 こんな夜に欲しいのは、温かい飲み物と甘いお菓子で間違いないはずだ。自分よりも、ゼストのほうがいいタイミングを見計らえるというのはいささか癪だったが、こればかりは経験を積んでいくしかない。




「養子、かあ……」


 部屋に戻ったエステルは、ふらりと窓の見えるソファーにもたれかかる。あの場ではどうにか取り繕えたと思ったが、そう思っていたのは自分だけだったようだ。食堂を出てから自分の部屋に戻ってくるまでずっとルクスは不安そうに見ていたし、戻ってきたら戻ってきたでアーシェに心配そうな顔をされてしまった。


「エステル、嫌だっていうなら俺が今から」

「そうじゃないのよ。考えたことがないわけでは、ないもの」


 ぼんやりと外を眺めていたエステルの視界に、いっぱいの金色が広がった。眉を下げて心配だと全身で伝えてくるルクスに、ふっと表情を緩めたエステルは、自分の言葉を心の中で繰り返した。

 そう、考えたことがないのではない。考えないようにしていたのだから。


「本当だったら、お父様はわたしの意見など聞かずに話を進められるはずだわ。それを、きちんと話をしてくれたことはとても嬉しいの」


 当主は父だ。だからこそ、娘である自分の意見など聞かずに養子を迎えた。ただそれだけで済ませられるし、いろいろと学んでいく中である意味で当たり前のことなのだと知った。


「でもね、やっぱりわたしは……わたしじゃダメなんだって思う気持ちを無くせそうにないわ」


 けれど、改めてその選択を告げられて最初に感じたのは、自分ではこの家を守れないのだという落胆。

 爵位を得て、妖精王の後見をいただいて。これなら女性だからと家を継げないと言われることはない、そう思っていた。


「ねえルクス。わたしが、男の子だったら良かったのかしら。そうしたら、家を継ぐことでお父様を悩ませることも、お母様の看病だってもっと上手に……」


 エステルの言葉は、それ以上続かなかった。いつものような温もりを分けるような、ただ触れ合うようなものではない。力強く抱きしめられたエステルは、思わず息をするのを忘れてしまった。

 ぎゅうっと背中に回った手が、その存在を確かめるように何度も何度も力を込める。肩にかかった髪の毛は、いつかのようにくすぐったいけれど、どうしてだか、それをルクスに告げようとは思わなかった。


「俺は」


 吐息が、エステルの首筋にかかる。耳を震わせるのは、聞き慣れているはずなのに聞いたことのないような深みのある響き。


「俺は、エステルがエステルで良かったと思っている。男だとか女だとか、そんなの関係ない。

 小さい時からキラキラした顔で俺たちを見つめて、無邪気に追いかけ回して。自分が傷ついたってクレア様との約束を守ろうとする。どんな小さなことだって俺に、笑顔をくれる。

 そんなエステルだからずっと大切に思ってきたんだ。だから、そんな悲しいこと言わないで」


 ルクスの瞳には、エステルしか映っていない。どれだけ真剣な気持ちで、どれだけの言葉を尽くして気持ちを伝えてくれているのか、それが痛いほどに感じられた。

 誰よりもずっと傍にいて、見守ってくれていた妖精。離れたくないと思う、大切な存在。ルクスの言葉が、絡み合った糸のように巡っていた考えを、ひとつひとつゆっくりと解いていく。

 そうして、最後に残ったのは。


「わたしが、心からやりたいことは……」


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