5.
さっきまでさらさらと流れていたはずの水の音が聞こえない。エステルの耳に届くのは、言葉にならずに消えていく自分の吐息だけだ。
「その様子だと、クレアからは何も聞かされておらぬようだな」
頷いただけでは失礼だという考えも僅かに浮かんだが、エステルにはそこまで気を配れる余裕はなかった。
妖精、そして彼らの住まう楽園が聖域。けれど、それがどこにあるのか、どのような場所なのかまでは例え王都の書物を全部ひっくり返したとしても、詳しいことを調べることはできない。妖精に見初められた愛し子ならば、聖域に自由に出入りできると聞くが、そもそも妖精が人を見初める基準すら分かっていない。
だからこそ、妖精と、聖域。それはずっと謎に包まれているし、多くの研究がなされている。
それを貴族の一般的な教養の中のひとつとして勉強したエステルだからこそ、青年からさらりと告げられた言葉に衝撃を受けたのだ。
「なれば驚くのも無理はない。長くなるが、付き合えよ」
「もちろんです!」
話してくれるというのであれば、どれだけ長くなろうとも付き合わないはずがない。先ほどの言葉に詰まった様子から一転して被るように答えを返したエステルを見て、愉快そうにくつくつと笑いをこぼした青年が、すっと佇まいを変えた。
「我らは妖精。古くからこの地に住み、そして慈しんできた」
すうっとただ伸ばしただけの青年の手のまわりに、淡くて優しい光が集まりだす。それぞれ自由に動き回っているけれど、その動きを見ている青年は柔らかく微笑んでいる。
この光、ひとつひとつが妖精だ。説明されなくてもそれはエステルにだってすぐに分かった。
ふ、と疑問がエステルの頭をかすめたけれど、それを口に出すのは後回しだ。青年の話の一言だって、聞き洩らしていいような内容ではないのだから。
「そうしていつか人が集まり、国と呼ばれるようになっていった。だが、我らには人の営みなど分からぬ。故に互いの存在を知っていながらも干渉はなく、隣人としての距離を保ち続けていた」
ここが国として興ったのは、もうかなり前の事になる。それを自分もその場にいたような口調で語っているのだから、青年の見た目と年齢は一致していないのだろう。妖精はみな長寿なのかそれともこの青年だけなのか、エステルには判断できるだけの知識はなかった。
またひとつ、聞いてみたい事が増えながらも青年の話は続いていく。
「だが、我らにも心動かされるものがある。きっかけはお前たちの言う魔力であり、それをいつしか愛しく思うようになった」
青年の金色の瞳が、瞬きもせずにエステルの事を見つめている。思わず肩を揺らしたエステルの様子など気にも留めずに、青年はつい、と目を細めた。まるで、その時の事を懐かしんでいるように。
「我らが愛しく思った魔力を持つ人は、同時に我らの事を敬った。
妖精は、受けたものを忘れることはない。向けられた感情と同じだけのものを返す。そうして出来た関係が愛し子だ」
目の前に誰もいないのに、おしゃべりを楽しんでいるような様子だった母を思い出したエステルは、ようやく行動のすべてに納得がいった。
母は分かっていたのだろう、妖精が、愛し子となった自分だけにしか見えていないことを。幼いエステルが母の周りにある光を追いかけるような仕草を見せていたから、自分の前でだけは隠すことなく妖精と交流を持てていたのだと。
「クレアが夜の国へ旅立ってから嘆いていたからな。おおかた、そやつらが気まぐれでお前をここに呼んだのであろうよ」
「え、ええと、でも……」
「不満でも、あると?」
整った顔立ちでもひときわ目を引く金の瞳は、エステルが言い淀んだ瞬間に鋭利な刃物を思わせる印象へと変わる。
話を聞いてエステルが感じたものと、青年がその態度をどう取ったかが間違いなく誤解されている。瞬時にそう悟ったエステルは、慌てて口を開いた。
「今まで妖精も、母が愛されていたということも知らなかったわたしが、ここにいることに申し訳なくなりまして」
屋敷を飛び出したところで、行く当てのない自分を気まぐれだとしてもこの聖域に案内してくれたことには感謝しかない。夜の寒さに凍えることもなく、体を清める事も出来た上にこうして穏やかな時間を過ごせているのは、その気まぐれがあってこそだ。
けれど、愛し子だと、大切そうに名を呼ばれている母とエステルは違う。
青年から名を尋ねられない事はもちろんだが、妖精の心さえ惹きつけるという魔力に関して、エステルは苦い物を持っている。
「同族が招いたのだったら、拒むことはせぬ。クレアに似た魔力は我らも好ましく思う」
「重ね重ねで申し訳ないのですが、わたしは魔法を使えないのです」
やはりそうだったのか、とエステルは胸の奥にある淀みを出さないように細い息を吐き出した。エステルの瞳は父と同じ碧で、母の宝石のようなピンク色の瞳は継いでいない。髪色こそ魔力の高さを示す銀髪だが、それは今やくすんでいる。そしてその髪色は、エステルがずっと吐き出せない淀みを溜め続けている理由でもあった。
「その髪色を持っておりながら使えぬなど、冗談にしてはつまらんな」
何度も言われた言葉だが、青年の声には蔑みよりも信じられないという感情がこもっていることがよく分かった。だからこそ、エステルは慣れてしまった返答に冷静を心がけて答えるのではなく、本心から残念な気持ちを込めて告げる。
「幼い頃には教師から手ほどきを受けたそうなんですが、どれも発動することなく終わったと。それ以降、教えを受けてはおりません」
「ふむ、そうか。なるほど」
エステルの顔をしげしげと眺めて、何か納得したように頷いて笑う青年。耳元では、小さな光が何かを訴えるように瞬いていた。
母のような愛し子ではない。魔力は高いだけで自分では扱えない。これほどまでに良くしてもらえたのだ、今すぐ出ていけと言われるのは当然だろうと青年の言葉を待っていたエステルだったが、ほんのわずか、違う気持ちがこみ上げてきた。
ここが聖域で、自分の周りにある数多の光が全て妖精なのだというのならば。ここを出る前に一度でいいからその姿を見てみたかった、と少しだけ母を羨ましく思う気持ちと、どうして自分では見ることが出来ないのだろうという残念な思い。
無事にここから屋敷に戻れたのならば、魔力の扱いをもう一度勉強させてもらえないだろうか、という気力さえ湧いてきた。
「クレアの血縁、ゆえにお前は我らの聖域に招かれた。その傷が癒えるまでであれば、ここに居ることを許そう」
「……!
ありがとうございます!」
思ってもいなかった言葉をかけられて、茫然としてしまったエステルだったが、その言葉の意味を理解してからすぐに頭を下げた。
傷と示されたのは足の擦れた箇所だけではない。母の療養の時に慣れない家事でつけた小さな切り傷であったり、カーラやルディアーナから押し付けられた掃除や、棒で殴られたときに付いたであろう痣。
青年はそのひとつひとつを丁寧に触っていく。古めかしい言葉と尊大な態度とは違って、万が一にでも痛まないようにと気を配ってくれているのが分かる手つきに、エステルは自然と笑顔を浮かべていた。
「もう痛まないので、大丈夫ですよ。そのお気遣いが、とても嬉しいです」
「ああ、分かった。
それから、そこに生る果実は好きにしてよい。この水場もだ。あとは、そうだな」
照れ隠しのようにふい、と水場の近くに茂る草木を示した青年の、光を吸い込んだような眩しい白銀の髪の隙間から僅かに朱に染まった耳が見えた。
それを見つけたエステルはもう一度小さく笑い、気づいた青年は恥ずかしさを隠すかのように早口で言葉を続けた。
「そいつの姿くらい、見てやると良い」
「そいつ?」
「なんだそこからか。まあ、あまり待たせてやるなよ。我らはともかく、お前の時間は進むのが早いからな」
そのままふわりと周りの景色に融けるように姿を消した青年。残されたエステルは、まだあたりにある光のなかから、何かを探すように視線を巡らせた。
「そいつ、ってあなたのことかしら……?」
そっと寄り添っていた光が、頷くように小さく揺れた。