46.
「ねえ、聞いて! さっき見ちゃったの!」
街中の舗装された道をパタパタと軽快な音で駆けていく少女。目的の人物を見つけると、興奮している気持ちをそのまま乗せたような声を上げた。
「見たって、何を?」
「妖精様よ! 噂通り、すっごくかっこよかったー!」
「ふーん」
すごい、と頬を赤く染めた少女の言葉を受け止めているのは、同じ年代の少女。こちらは興奮している少女よりも幾分か落ち着いた様子で相槌を打っている。
その姿を見慣れているのか、駆け寄って来た少女は気分を悪くしている様子はなく、会話を続けている。
「興味ないの?」
「だってあたし、近くに住んでるし。よく見るもん」
王都のなかでも少し広い土地を預かっているフォルカー家の庭は、近くの住民たちからは憩いの場のような扱いをされているが、一時期には遠回りしたりわざとその近くに用事を作ったりして、側を通ろうとする人が増えた。
住民が見たいのは、妖精やその主であるエステルの姿だ。ちょっとした観光地のような扱いになっているが、エステルとイルハルドが特に気にしていないので、邸の使用人たちもそのままにしている。最も、エステルもイルハルドも邸にいる時間は少ない。エステルがいないなら、当然ルクスもいない。
それでも一目見たいと思う人はちらほらいる。この興奮している少女も、そのなかの一人だったのだろう。
「ほら、そこ。静かになさい。今日は妖精の聖域まで、勉強に行くんですからね」
「はーい」
まだ何かを言おうとしていた少女を止めたのは、近くにいた男性。二人が話している間に、散らばっていた子供たちが男性の周りに集まっていた。
これからみんなで向かうのは、妖精の聖域。少し前までは妖精の森と呼ばれていたが、妖精王が宿り木の管理を任せるようになってしばらくしてから、名前を変えることになった。今では、小さい子供たちが勉強として向かう事も当たり前の光景となった。
少女は、妖精を見かけたと興奮している友人を見て思う。これから、聖域に向かったらその見かけた妖精と共に行動することになるだろう事を、友人は分かっているのだろかと。それを教えたら道中ずっと騒がしくなりそうなので、黙っていることを選んだ少女がどちらにしても友人の悲鳴を聞く羽目になったのだと分かるまで、あと少し。
*
エステルがルクスと出会ってから、二度目の季節がやってきた。
勉強のし直しだった貴族令嬢としてのマナーも、社交の場での立ち振る舞いも、今では他の誰と比べても指摘される点はなくなった。
ヴィオラから学んでいたことを、実践として経験を積む場があちらからやって来るのだから、戸惑っている暇もなかったのだ。
「エステル様、本日は聖域で子供たちの引率ですね」
「そうなの。みんな素直でいい子たちだから、妖精の姿が見られるようになるかもしれないわ」
「あら。それは楽しそうです」
アーシェと毎朝支度をしながら話すことにも慣れたエステルは、にこやかな笑みを浮かべている。自分付きの侍女がやって来ると聞いた時に緊張して体を固くしていたのが嘘のような様子に、アーシェも笑顔を浮かべている。
「さ、用意出来ましたよ。今日は歩くでしょうから、しっかりとまとめておきました」
「ありがとう。アーシェのまとめかた、わたし好きよ」
「ふふ。それでは、もっと腕を磨きませんとね」
チェンダー伯爵家での新たな産業の開発に加えて、妖精王から直々に後見を得たエステルは、個人として伯爵を名乗ることを許された。妖精の主となり、妖精王とも対等に言葉を交わせる貴重な人材を逃したくないという思惑もあるが、エステルとしてはこのまま家を存続できるだろう爵位に、胸を撫で下ろした。
「朝食の準備も整いました。参りましょうか」
その分増えた日課は、妖精たちの住まう聖域を管理している人達の手伝い。さらに最近行うようになったのは、妖精と人間の交流を増やすための勉強会だ。
聖域に、ある程度の人を招いてエステルが説明する。そうして、自由に散策してもらって妖精たちの姿を感じ取ってもらおうと始めたのだが、なかなかこれの評判が良い。
物珍しさから話題になったが、実際に妖精の姿を見えるようになったという人が現れてからは爆発的にうわさが広がった。今では、毎月予約を取らないと参加が出来ないほどだ。
「ただいまー!」
「お帰りなさい、ルクス。買い物任せちゃってごめんなさいね」
朝食の席に向かっていたエステルに、元気な声がかかる。今日は朝から出る予定があったので、妖精王に渡すための焼き菓子の買い出しをルクスに託していたのだ。エステルとよく行く店だし、店員もルクスの顔を覚えているだろうから大丈夫だという言葉を信じて送り出したけれど、どうやら無事に買い出しを終えられたようだ。
「ちょっと見つめられたけど、別に何もなかったから大丈夫」
渡された紙袋の中を確かめていたエステルは、ルクスのその言葉を聞いて一瞬動きを止めた。滑り落ちそうになった紙袋は、アーシェが手を伸ばしたことでガサッと大きな音を立てたけれど、落下は防ぐことが出来た。
「見つめ、って女の人から?」
「こーんな小さい子だよ。これから聖域に行くって言ってたから、後で教えてあげる」
こんな、とルクスが示したのは自分の腰くらいの身長だった。そのくらいの年代の子なら、聖域で勉強会に来るくらいの子供だろう。そう思って安心したエステルは、ようやくアーシェから紙袋を受け取ることが出来た。
「心配、してくれたの? ありがとう」
ルクスは、最近エステルのことをからかうのが楽しみのようだ。今だって、見つめられたなどとわざわざ報告しなくてもいいことをエステルに告げては、どう反応するのかを観察していた。
恋心を自覚したエステルは、面白くないと思いながらもそれを素直にルクスに言えるはずもなく。結果として、目線を逸らして頬を膨らませるという子供のような表現だけで終わらせてしまう。
「もちろん、心配したわよ。また匂いにつられて迷子になっていたらどうしようって」
「もー、それはずいぶん前だろ? エステルがおやつ作ってるって分かってるんだから、真っすぐ帰ってくるって」
自分ばかりそんな思いをしていることが少しだけ悔しいエステルは、少し前の話を持ち出してみたけれど、それもルクスからさらっと流されてしまった。
ルクスは街中を散歩するようになってすぐ、エステルとはぐれたことがある。それは、さっき言った通りに匂いにつられてふらふらと道を逸れてしまったからなのだが。
食事に興味はない、と言っていたのはもう昔。今はエステルと食卓を共にすることを楽しみにしているし、好みも自分で把握している。
「アーシェ、ルクスの分はあったかしら?」
「さあ、どうでしたかね?」
「マジかよちょっと二人とも! エステルごめん!」
こんな軽口の応酬も、少し頬を赤らめるだけで出来るようになった。ルクスがからかってくる時には、食事がらみの返しをすると効果が高いと、エステルだって学んでいる。
これでルクスがちょっとでもエステルと同じような反応を返してくれたなら、期待して一歩踏み込んだ行動が取れるのに。そう思いながらも、お互いまだ距離を測りかねている部分があるようだ。
結果として、エステルが笑顔を浮かべてルクスに伝えるのは、いつも同じ。
「ルクス、今日もよろしくね」
「こちらこそよろしく、エステル」