45.8 sideエステル
「エステル」
母が亡くなってから、呼ばれることの少なくなった名前。それを一日に何回も、当たり前のように呼んでくれる声を、宝物のように思うようになったのはいつからだっただろうか。
つい最近だったような気もするし、ずっと前から聞いていたと思えるくらいに耳に馴染んだ声。
「ルクス、どうしたの?」
「あのさ、ちょっと相談なんだけど……」
邸の自室に移動していたエステルは、柔らかな声に足を止めた。振り返ると、紺色の表紙に金の箔押しを施した本を持っているルクスの姿があった。
少しばかり申し訳なさそうに眉を下げたルクスが、言いにくそうに視線を彷徨わせている。
「あら? その本ってもしかして」
「うん。前に貸してもらったやつ。それで、その……」
ルクスが片手で持っているのは、紺色の表紙に金の箔押しがされている落ち着いた色合いの本だ。そっともう片方の手を下に添えているから滑り落ちていくことはないのに、ルクスがちょこちょこと動かすたびにエステルの視線がそれを追いかけている。
視線を彷徨わせるルクスと、手の動きを追いかけていたエステル。意識しなければ合うはずのない視線がバチリとぶつかった。
ルクスが嬉しそうに笑ったのは一瞬で、ハッとしたように目を逸らす。けれど、ちらちらと様子を伺っている姿を見たエステルは、小さく笑った。
「ちょっとなんで笑うの」
「ふふ、ごめんなさい。ねえ、ルクス。今から時間はあるかしら。一緒に厨房に行ってゼストに頼みましょう?」
むすっと、小さい子供のように頬を膨らませたルクスがエステルとの距離を一歩詰めた。そうして、ルクスが先ほどからそわそわしている原因だろう本が良く見えるようになる。
貸したのはエステルだから、もちろん表紙を見ればどんな内容なのかは分かるけれど、改めて確認してみたらルクスがどうしてあんなにも言いづらそうにしていたのかが、とても良く理解できた。
「何で分かったの?」
自分が言おうとしている事を先に口にしたエステルに、ルクスが驚いたように目を丸くした。エステルが分かってくれて嬉しいけれど、少しだけ恥ずかしい気持ちもあるようでほんのりと頬を赤く染めている。
「だって、読んだらわたしも食べたくなるもの。ホットケーキ」
エステルが貸した本、そのなかでたった一度だけ母との思い出として語られるのがホットケーキだ。幼いエステルは母にせがみ、ゼストに一緒に頼みに行って本に出てくる通りのふわふわなホットケーキを焼いてもらったことがあった。
離れにも持って行ったその本を事あるごとにその場面を読み返しては、あの時の温かな気持ちを思い出していたから、とても良く覚えている。
「じゃあ、一緒に行こう!」
「ルクス、ちょっと待って!」
悩んでいた様子が嘘のように軽い足取りで移動を始めたルクスを、エステルが追いかける。途中でエステルを探しに来たハンスが、二人の様子を微笑ましく見守っていた。
*
「エステル様は、想いを寄せる方がいらっしゃるのですね」
「ヴィオラ様!?」
ぴゃっと肩をすくませたエステルの口から、少しばかり高い声が上がった。自分の声にびっくりしたのか大きかったと思ったのか、エステルが慌てて手で口を覆う。
そんなエステルの姿を見たヴィオラは、驚いた様子さえ見せずに微笑んだ。
「あら可愛らしい反応ですこと。そんな素直な感情を向けられるあの方が羨ましいですわね」
「あの、えっとその……!」
「慌てなくても、ご本人には話しておりませんわ。ご安心くださいな」
あまりの慌てっぷりに苦笑いをしたヴィオラは、エステルを安心させるように言葉を選ぶ。ご本人、と名前を告げないのは近くにいるだろう事を察しているからだ。
ヴィオラに魔法を教わりに行く、と決めたエステルにルクスは反対しなかった。けれど、離れるつもりはないようで、エステルがヴィオラの邸を訪ねてくる時には必ず一緒に来る。ただ、ヴィオラが話す魔法の理論などはルクスにとって退屈なもののようで、話が続くとふらりと姿を消すことはあった。
疑問に思ったのはヴィオラだけではなかったようで、後から話を聞いたエステルから、邸のなかにはいるし、常に魔力を感知しているから何かあった時にはすぐに駆けつけられると教えてもらった。
それを知っているからこそ、このような話も出来るようになったのだけど。
「いつ、お気づきになりましたか」
「確信を持ったのは先ほどです。それでも、普段の様子を知らない者でしたら分からないと思いますわ」
「つまり、いつものわたしを知っている人だったら気づくかもしれない、という事ですよね」
ルクスが向ける視線はただただエステルだけに向けられていて、ヴィオラのことだってちらりとしか視界に入れていないだろう。その姿はいっそ清々しいと思えるくらいで変化はないけれど、エステルは違う。
あちこちに視線を巡らせては興味を持ったところで瞳が輝くのだ。ダリルから少し事情を聞いていたから、ヴィオラは今までその事を口にしなかっただけで、エステルの様子はとても分かりやすい。
貴族令嬢としての勉強も始めるようになるのだから、いいきっかけになるかと思って告げてみたけれど、思っていたよりも効果が高かったようだ。口を押さえていた手が、真っ赤になっただろう頬を隠すために動いた。
「ご本人は、エステル様が極端に態度を変えなければ分からないかと。それが普通だと思っていらっしゃるでしょうし」
エステルが恥ずかしがっている姿を見たヴィオラは、正直なことを口には出来ず、たぶんね、とこっそり心のなかで追加した。
「知り合ってあまり時間の経っていないヴィオラ様が気づくくらい、分かりやすいんですね。わたしって」
「知り合って間もないからこそ、些細な違いが目につくものです。不安にさせてしまい、申し訳ありません」
これが顔色を読むのが得意な自分の夫だとどうだろうか、とヴィオラは自問したが、答えは出なかった。仕事は出来るのに、プライベートで人の気持ちを汲み取ることはあまり得意とはしていない夫の姿は、つい最近目にしたばかりだ。
いろんなしがらみを抜きにたら、自分の感情を素直に表現できるエステルの姿は、ヴィオラには好ましいものに映った。
「いえ、教えてくれてありがとうございます。ヴィオラ様」
「では、今日は気持ちを整理する時間といたしましょう。混乱させるような事を言ったのはわたくしですから」
気持ちを整理する、そう言われたエステルの頭に浮かんだのは、初めてルクスの姿を見た時の事だった。
忘れたいとも思わないし、忘れるだろうとも思っていない。あの出会いは、まるで記憶に焼き付いたかのように鮮明に思い出せるのだから。
聖域で、小さな光が騎士のように自分を守ってくれていた時から好意はあったと思う。そうでなければ、あれだけたくさんの光のなかからたったひとつ、自分の傍にいてくれた光を見つけ出すことなど出来なかっただろう。
「初めて、ルクスの姿を見た時に思ったんです。絵本の王子さまみたいだって。同じ色の瞳だって分かって、お揃いなのが嬉しくて」
「お二人とも綺麗な碧色ですわね。お揃いだと思われる気持ち、分かります」
「ヴィオラ様も、同じですよね?」
「わたくしは、お二人のように深みはないのですよ」
すっと肩を寄せたヴィオラが、手鏡を用意する。そうしてエステルと並んでみれば、確かに瞳の色に若干の違いがあることが分かった。
しばらくヴィオラの瞳を見ていたエステルだったが、何かを確認したかのように頷いてから離れていった。
「ルクスと、今のように距離を詰めたことがあったんです。わたしを見て、嬉しそうに笑っているのを見て、ドキドキしてしまって」
「その笑顔を向けるのが、自分だけだと気づいたのですね」
「聖域を出て、邸に帰った時に分かりました。ルクスが、笑顔を見せるのはわたしにだけだって」
あの頃のエステルが置かれていた境遇を聞けば、ルクスの態度は理解が出来るし、納得もする。ただ、その行動が妖精としてエステルを守ろうとしているのか、それともルクス個人としての感情が含まれているのかどうか、についてはヴィオラにだって分からない。
「初めは、ルクスにもお父様やゼストとも仲良くなってもらいたいって思っていたんです。けれど、ルクスが他の人と話していると少しだけ、嫌な気持ちになることがあって。それが、わたしについてくれた侍女だと、余計に」
エステルが離れにいる事を知らずにいた使用人たちは、全員カーラが雇っていた。だからこそ、イルハルドは全員に暇を出して、総入れ替えのようにしたのだから。
エステル付きになったアーシェは、新しく雇われた侍女だ。だから、エステルとルクスが一緒にいる事を当然として受け入れている。エステルだってそれは分かっているのに、ルクスとアーシェが話している姿を見ると、つきりと胸に痛みが走ることに気がついてしまった。
「こんな気持ちを持ってはいけない、と。なくす方法を調べようと本を読んだんです。そうしたら」
「嫉妬、そう書いてあった。違いますか?」
ふるふると緩く頭を振ったエステルが、俯いた拍子にさらりと揺れる銀髪。灰色にくすむくらい満足に手入れの出来なかった髪に、輝きを取り戻すために手伝ってくれたルクス。それだけでも、エステルの気持ちを舞い上がらせるのには充分だった。
「エステル様。本に書いてあることは、一般論にすぎません。その気持ちは、エステル様自身が形を作ってあげないといけませんわ」
「わたしが、形を作る……ですか」
「どのような形になるのかは、今はまだ分かりません。ですが、エステル様は人を傷つけるような尖った形にはなさらないでしょう?」
カーラがイルハルドに向かって感情を吐露する場面は、話を聞いただけのヴィオラでさえ少し冷たさを感じさせるものだ。その姿を覚えている限り、エステルが育てる感情は決して同じようなものにはならないだろう。何より、エステル自身がああなる事を望むとは思えない。
「嫌な気持ちも、胸の痛みも、持っていていいんです。ですが、人を攻撃する理由にしてはいけませんわ。折り合いは、自分でつけなければ」
持っていていい。そう言われてエステルの瞳からほろりと涙がこぼれ落ちた。誰にも相談できず胸の奥でくすぶっていた想いが少しずつ、解けていく。
解けたその先に灯っていたのは、ただ好きだという気持ちだけ。
「ヴィオラ様、わたしルクスの事が好きです。これからも、一緒にいたい」
「そのお気持ち、どうぞ大切に育ててくださいませ。相談は、いつでも乗りますわ」
好き。そう言葉にしてしまえば、ストンと胸に落ちてきた。まだまっさらなこの気持ちをどのような形にするかは、これからのエステル次第だ。
けれど今は、ただその気持ちに名前がついたことに安心したのだろう。こぼれた涙がボロボロと止まらなくなっているのを見て、ヴィオラは苦笑いした。
新年あけましておめでとうございます。
今年も、どうぞよろしくお願いいたします。
エステルよりも、ルクスが先に自覚していました。
恋愛初心者な二人のこれからにもう少し、お付き合いください。