42.
ここしばらく、使われる事なく静かなままだったホールには、活気があふれている。あちらこちらで上がる笑い声は、久しく聞いていなかったようなもの。
何の憂いもなく心の底から楽しんでいる気持ちを表しているようなその声を聞きながら、国王はすっと背筋を伸ばした。
この声こそ、自分がこれからも慈しみ育んでいくものなのだと、気持ちを新たにして。
「今宵は、久しぶりのパーティーとなる。どうか存分に楽しんでほしい」
国王としての挨拶を、ここまで穏やかな気持ちで終わらせられたのも、久しぶりだと思えば口元には笑みが浮かぶ。
最後にまだひとつ、仕事は残っているがこの挨拶を終えたらしばらくは歓談の時間だ。そのくらいの間だったら、羽を伸ばしても文句は言われないだろう。
国王を見送ったホールでは、再び人々の歓声が響き始めていた。
「すごい人の数……」
大きくて広いホールのどこを見ても人がいる。そんな空間に初めて来たルクスは、くらりとした感覚をやり過ごすように、頭を押さえた。その様子を見たエステルが、心配そうに眉を下げてルクスの表情を覗き込む。
顔色が悪い訳ではないから、ひとまずは大丈夫だろうとも思ったが、エステル自身もここまで人が多い場所に出るのは初めてなので、少しだけ不安を感じている。
「ルクス、大丈夫? ちょっと冷たい物もらってきましょうか?」
「うん、お願いできるかな」
壁際には休憩が出来るように柔らかなクッションが置かれたソファーが並び、思い思いに場所を取っては一息ついている人の姿もある。ルクスを促して座らせたエステルが静かに問いかけると、すんなりと頷いてくるあたり、あまり余裕はないのかもしれない。
いつもだったら他の人がいる場ではルクスの方がしっかりとして、エステルを守ろうという姿を見せてくれているが、今日はいつもと役割が逆だ。
少しだけしょぼんとしているようなルクスの様子は、守ってあげなくてはという気持ちが湧き上がってくるようで、自分もこのように見えているのだとしたら、もう少しだけしっかりしようとも、このまま甘えたいとも思える何とも複雑な気持ちになった。
「ほほう。主を使い走りにするなど、お前もなかなかやるなあ」
「ちょっと、妖精王。そんな事言うと……」
「エステル。やっぱ自分で行くからいい」
しゃんと立ち上がった拍子に、装飾の石がきらりと光る。結局、ルクスは自分を着飾るよりもエステルに回してくれという主張を崩さなかった。それをどうにかヴィオラが説得して、エステルとルクスは似たようなモチーフを着けるという事で話をまとめたのだ。
エステルの首元を彩る母の形見のネックレス、その宝石をルクスが作ってくれたという話を聞いたヴィオラの提案で、クラヴァットの留め具として同じような色合いの石を使っている。
「ほら。ルクスはこう言うって分かってましたよね?」
「さてなあ。我はルクスとは一言も言っておらぬぞ」
素知らぬ顔をしながらも、妖精王は小さく笑いをかみ殺している。一瞬、周りのざわめきが静かになったような気がしたことには、全力で気づかないふりをした。
この場には、妖精王だけではなく宰相や王城で働く人達だって混ざっている。反応しないように、と思えるくらいに自分が場慣れしたのか図太くなったのか少しだけ判断には悩むけれど。
「もう。ルクス、わたしも飲み物欲しいのよ。一緒に行きましょう?」
「……エステルがそう言うなら」
エステルに、自分の主に誘われて嬉しいというのはどう見ても明らかなのに、それを必死で取り繕うとしているルクスの様子にまた笑みを漏らした妖精王は、今度は何も言わずに見送った。
二人揃いの白の服は、周りにたくさんいる同じ色に紛れてあっという間に見えなくなったが、妖精王はいつまでも二人を追うように視線を向けていた。
「エステル様。本日はおめでとうございます」
飲み物をもらって、ルクスと一息ついていたタイミングでかけられた声は、もう耳に馴染んでいる。くるりと振り向くと、思っていた通りの人物が笑顔を浮かべていた。
「ありがとうございます、ヴィオラ様」
「エステル嬢、本日を迎えられたこと、とても嬉しく思う」
「ダリル様も、お祝いのお言葉有難く頂きます」
仲睦まじい様子を示すように腕を組んでいるヴィオラとダリルは、エステルの姿を見て笑みを一層深くした。
きちんと毎日邸に帰るようになったイルハルドからも、魔法とマナーを教えているヴィオラからも様子を聞いていたが、ダリルが直接エステルの姿を見るのは久しぶりだ。
クレア譲りの銀髪は艶やかなシルクのように光を集め、痣の見え隠れしていた腕に、もうその面影はない。なにより、周りの視線にいつも怯えて肩を縮こまらせていた姿がなくなっていることに、ダリルは胸を撫で下ろした。
「しかし、陛下の急な思いつきにも困ったものだ」
そう言いながらも、ダリルの表情は穏やかだ。ゆっくりと自分の顎を撫でて会場を見渡す姿からは、どこにも不満など見て取れない。
「旦那様、皆の顔を見まして? とてもいい表情をしておりますわ」
「病が流行り始めてから、大きなパーティーは控えていたからな。デビュタントも、出来なかった者たちか」
若干不慣れな様子を見せながらも、楽しそうな雰囲気のなかでドレスを翻して踊る少女。そわそわとその姿を見ては、話すタイミングを窺っている少年。ぼうっと熱のこもった視線を送っている様子も、談笑している男女だって、少し前までは当たり前のように見ていた光景だ。
病が流行ったことでしばらく見ることはなかったが、こうしてまた目の前にあると目頭が熱くなる。国王の思いつきを形にしたのは自分たちだったし、今日まで調整に調整を重ねてきたけれど。
ダリルは、この少しばかり光の滲んだホールの光景を、目に焼き付ける。きっと、忘れたくとも忘れないだろう。
「ええ。皆の白い衣装が大輪の花のようです。エステル様、ドレス似合っておりますわ」
エステルのドレスは、細めのラインを見せる形で決まった。というのも、病が落ち着いて、ようやく社交界も活発になってきてはいるが、まだ情勢が不安定な領地もあり、あまり派手な装いは自粛するような流れがあったからだ。
かといって、久しぶりの王家主催のパーティーなのだから、飾り気のない物など寂しいというヴィオラの意見によって、形はシンプルにして、その分布地やアクセサリーで差をつける方向になった。
胸元までざっくりと開いた形だが、首元から背中にかけてはレースが覆っているので、素肌は見せていない。痣が残っていたら、と気にしていたので手袋は肘までの長さを用意したが、肌にはもう痕はなかった。今、エステルが身に着けているのは単純に肌触りを気に入ったからだ。
スカート部分を絞っているが、裾にはゆったりと余裕を持たせているので、歩くたびにふわりと揺れる。
ヴィオラとエステルが悩み、デザイナーの助言を元にして作ったドレスは、ルクスも大層気に入ったのだ。このドレスを着たエステルと並ぶのだったら、自分の服も少しは寄り添えるように考えて欲しい、と意見を変えるほどに。
「ありがとうございます。ヴィオラ様のご意見のおかげです」
くんっと袖を引かれる感覚に、エステルが様子を伺うように振り返る。会場に来てからもずっと傍を離れなかったルクスだったが、どうにも様子がおかしい。
そわそわと落ち着かないように会場のあちらこちらへと視線を彷徨わせては、エステルを見て安心したようにへにゃりと表情を崩している。あまり見たことのない姿に、ひとまずルクスの話を聞こうと、エステルはヴィオラ達への挨拶を手短に済ませた。
「ダリル様、ヴィオラ様。失礼いたします。
ルクス、どうしたの……」
「あ、ごめんエステル。邪魔をするつもりはなくて、だけど」
「テラスに出ましょうか。きっと外の風を浴びたらスッキリするわ」
外の風、と聞いた瞬間に目を輝かせたルクスは、エステルの背中にぴったりとくっつくくらいの近さで歩いて行った。
その様子を見てあらあらと楽しそうにしているヴィオラを見たのは、隣にいたダリルだけだ。
「どうしたの、ルクス。人が多くてびっくりした?」
「たぶん。そうだと思う」
外はまだ明るい。デビュタントが出来ずにいた人達も集められているので、あまり遅くならない時間に開催しようと始まったからだ。もう少ししたら、国王から解散の声がかかるだろう。その前には、エステルもルクスもホールには戻らないといけない。
「あのね、エステル。俺、もしかして妖精としては良くないこと思ってるかもしれない」
「それは、わたしが聞いても大丈夫なこと?」
エステルが産まれた時から知っている、と言う通り、ルクスはエステルよりも長い時間を生きている。だからだろうか、普段のエステルとのやり取りでは自分の方が年上だというような態度を取っているのに、不安に思ったりしているときには、ルクスの言動が幼くなる。
最近気づいたルクスのその癖を、エステルはまだ自分の胸のなかだけで留めていた。何となく、自分だけが知っていたい、そう思って。
「うん。というか、聞いて欲しいんだ。……上手く、話せるかは分からないんだけど」
さあさあと風が木々を揺らす音が優しく響く。バルコニーの手すりに寄り掛かったルクスは、エステルと同じ碧色の瞳を、不安げに揺らしている。
「エステルとヴィオラが話してる時、周りにいた人間は皆、エステルのこと羨ましそうに見てたんだ。俺は、エステルの今までも全部知ってるから。主がこんなにたくさん見られて、褒められてるのを聞いて嬉しかった」
周りの視線には、エステルも気づいていた。ただしそれは、自分が見られていることに気付いているだけで、その視線にどんな感情がこもっているのかまでは、分からなかった。
褒められていた事にも、気づかないくらいにヴィオラとの話に夢中になっていたのかと少しだけエステルは反省したけれど、ふうと小さく息を吐いてからルクスの声に集中した。
「だけど、なんだかこの辺がもやもやするんだ。嬉しいのに、誇らしいのに、それを聞いたエステルがそっちに向かって笑うんだと思うと、ここがぎゅっと握られたみたいに、苦しくなって」
ここ、とルクスが繰り返しながら示すのは、胸元。アスコットタイだと嫌な奴を思い出すから、と似た形のクラヴァットで飾ったが、そのスカーフを掴んでいるルクスは、眉を寄せて口を引き結んでいる。まるで、感情を堪えるように。
「主の幸せが、妖精の幸せ。エステルが幸せだったら俺も嬉しいのに、なんでこんなに痛いんだろうって」
それ以上、ルクスが言葉を紡ぐことはなかった。エステルがルクスの腕を取ったからだ。握りしめているスカーフからゆっくりと指を離していく。
よほど力を入れていたのか、しわが残ってしまったスカーフを優しく撫でてから、エステルは当てのなくなったルクスの手を取った。そうして、スカーフの代わりだとばかりに自分の指を絡めていく。
「あのね、ルクス。わたしの事、大切に思ってくれてすごく嬉しい」
こつん、とおでこをぶつけたエステルはもう一度小さくありがとう、と呟いた。今日のために着飾ったエステルからは咲き誇る花のような香りがして、ルクスの思考を揺らす。同じ碧色の瞳に、お互いの姿が映っているのが分かるくらいの距離、しゃべるたびにかかる吐息がくすぐったい。
「わたしも、たぶん似たような事を考えていたの。ルクスが、この会場にいる令嬢たちから視線を向けられるたびに、ちょっと嫌な気持ちを抱いたわ」
ルクスは物じゃない。エステルのことを主として慕ってくれていても、感情のある一人だ。だから、エステルはその時を想像しなかった訳ではない。たくさんの人の集まる場にいて、一目ぼれをすることだってあるだろう。そうなったときには、想像の中の自分は笑顔でルクスの事を応援できるように、イメージだってしてきたはずだったのに。
今日、今までで一番の人の多さに酔っただろうルクスが、最初に頼ってくれたことに浮き立った心を、エステルは自覚している。
「そっか、俺たち同じこと考えてたんだ」
「似た者同士、って言うのよ」
「そっか。うん、そうだよな。
なんだか安心した!」
くっつけたままのおでこに、ぶわりと上がった熱はまだ当分冷めそうにない。