4.
すうすうと規則正しい寝息を立てるエステルの様子を伺うような仕草を見せるのは、月の光を反射させたかのような白銀の髪を持つ人物。
快適とは言い難い窪みで、それでも穏やかな表情で眠っているエステルが身じろぎをするたびに、ひっそりと笑う。
「ふむ、懐かしい気配がするな」
すっと伸ばした細くて白い指が、エステルの眉間に寄っていたしわを解していく。わずかにうなされるような表情を見せていたエステルの表情は、しわが伸びたことで元の穏やかな表情に戻っていった。
その様子を確認し、優しく頭を撫でてから音もたてずにその場を去った姿は、エステルに優しく寄り添う光だけが見ていた。
「んっ……ここ、は……」
朝の光に照らされて目が覚めたエステルは、きょとんとした様子で自分と、辺りの様子を見渡した。窪みから抜け出して、強張っていた体をぐぐっと伸ばすと、昨日自分が何をしたのかが鮮明によみがえって来る。
「そうだわ、わたし」
手入れが行き届かずにくすんでしまったけれど、切らずに伸ばしたままで良かったなと思いながら体に添わせていた髪。櫛が通るような滑らかさはないが、やらないよりましだとばかりに何度か指を通らせてから、ワンピースのポケットに入れていた髪紐でひとまとめにする。
足の傷はまだじわりと熱を持っていて痛みを訴えて来るけれど、歩けないほどでもない。木に立てかけるようにして乾かしていた靴は、ほんのりと湿り気があるが汚れは落ちているし、履くのに問題はないだろう。
「あれは、夢だったのよね……」
うたた寝と同じような夢は見られなかったけれど、久しぶりに穏やかな気持ちでエステルは眠っていた。
そんななかで、どれだけ手紙を送ろうとも帰ってこない父の背中や、自分や娘であるルディアーナがちやほやされているのを見たカーラの勝ち誇ったような笑み。エステルの気分をささくれ立たせるようなものがすっと掠めそうになるたびに、優しい光がエステルの事を守ってくれたのだ。
最後に必ず優しく頭を撫でてくれたその手の感触は、目覚めた今でもはっきりと覚えている。
「おや、目を覚ましたか」
「えっ!?」
「ああ、こちらだ」
誰もいないと思っていた時に響いた声は、エステルの肩を震わせるのに十分だった。けれど、不思議と危険だと思う気持ちは微塵も湧き上がらない。
体の奥に染み入るような深みのある声に導かれるようにして、エステルは歩き出す。
昨晩、足の汚れを落とすために使った水場は、朝の光を浴びていると違った場所のように見える。灯りの少ないなかで星の光が水面に反射している様子は幻想的だったが、今朝の明るい日差しの下ではエステルが一晩の宿を借りた立派な木を始め、まわりの植物たちがとてもいきいきと成長しているのがよく分かる。
「あの、どなたでしょうか」
そんな水面の縁を陣取り、おそるおそる近づくエステルを面白そうに手招いているのは、まだ青年と呼んでも差し支えなさそうな年若い男性。
艶めく白銀の髪は顔の横で少し編みこんであるものの、腰のあたりで一つに結わいている。纏っているのは髪と同じような色合いで作られたローブ、のように見える。というのも、エステルが知るローブは頭からつま先まで全身をすっぽりと覆うようなものだが、青年のそれは、肩を露わにしており、腰から足先にかけては深いスリットが入っているようだ。
足を組んで座っているのか、ローブの裾がふわりと広がる様は色こそ違えど小さな水たまりのようにも見える。ズボンを穿いているようなので、組んだ足の肌を直接晒していないのは、エステルにとって救いだった。ふくらはぎのあたりで切れている裾から覗く足首には、周りの木々に負けないくらい鮮やかな緑色のアンクレットが輝いている。靴を履かずに素足でいるのに、その肌には草木の擦れひとつさえ見当たらない。
「なんだ、知らぬのか。縁ある者だと感じたのは間違いであったか」
「申し訳ありません。
フォルカー伯爵家長女、エステル・フォルカーでございます。どうか、ご関係をお聞かせいただけないでしょうか」
面白そうに見ていた表情から一転、興味をなくしたように表情を無にした青年の顔は整っていることもあり、どこか人形のような無機質さを感じさせる。
ざっと顔から血の気が引く音が聞こえたが、構うことなくエステルは頭を下げた。自分の知らないところで縁を繋いでいたのだとしても、フォルカーの名を背負っている以上、失礼な真似など出来るはずもない。
「人の名に興味はない。知らぬのであれば、我が問うのはひとつ。
どのようにして、ここに辿り着いた」
どのように、そう問われたエステルは必死に昨晩自分がたどった道を思い出そうとする。けれど、思い出せるのはぼんやりとした街の灯りに、ただただ人の少ない方を選んだだけの分かれ道。気付けば街の外にまで出ていたうえに、森に迷い込んだのだって本当にただの偶然だ。
自分がどんな道を通ったのかさえ分からない、そう言われても反論のしようがないとエステルはもう一度深く頭を下げる。
「それ、は……
申し訳ありません、自分でもどのようにここに来たのかは覚えておりません」
「そうか。この木の枝が示す先を辿れば、じきに外に出れるだろう」
青年が示した先の枝が、さわさわと揺れる。表情を変えてから、顔を見ることもせず視線すら向けようとしない青年に、エステルは三度頭を下げた。
もし、自分が無事に家に帰れたなら、この青年との縁はどこから繋がっているのかを調べないといけない、と思いながら。とにかく今は機嫌をこれ以上損ねないうちに立ち去るのが賢明だろう。
「あ、ありがとうございます。失礼いたします」
ひょこひょこと足を庇いながら歩き出すエステルを見た男性が、引き留めるように声をかける。
「その足はいかがした」
歩けないほどではないけれど、傷は癒えたわけではない。靴を履いたことで動くたびに当たって痛む傷を庇っていたエステルの動きは、確かに怪我をしているのだと分かるものだった。
青年からの指摘に、エステルはくるりと体の向きを変えたが、傷を晒すのには抵抗があるようで、痛む足をそっと引いた。
「恥ずかしながら、慣れない距離を歩いたことで擦れてしまいまして。
お見苦しいものを、申し訳ありません」
「……お前は頭を下げてばかりだな」
「申し訳……今もですね」
年長者を敬うのはもちろんだが、それを抜きにしても青年の地位は自分よりも高いはず。エステルとしては敬意を払っていたつもりだったのだが、青年はそれを咎めるような少し不機嫌な声色になった。
先ほどの、何の感情も読み取れない無表情よりは、不機嫌だろうと変わった表情の方が好ましく感じたエステルは、下げようとした頭を途中で止め、代わりのように苦笑いを見せた。
「その姿で外に戻すのは我らの矜持が許さぬ。ついて来るが良い」
古めかしい言葉に、尊大な態度。きっとエステルがついていかなくても青年には何の問題もないが、素直にその背中を追いかける。
カーラやルディアーナからついてこい、と言われたときにはあれほど抵抗したくなったのに、この青年についていこうと思えたのは、言葉とは裏腹に、足を庇うエステルの歩幅に合わせて青年が歩いていたから。きっと大丈夫だ、と思うエステルを肯定するかのように、歩くスピードに合わせて光がふわりと揺れた。
「その髪、手入れはしておらぬのか」
「昔は、母が櫛を入れておりましたが、今は」
「そうか」
青年に案内されたのは、先ほどの水場の向こう側。ぐるりと一晩を明かした木の後ろを通って来たけれど、やはり水場は広く、湧き出る水は透き通っていて底の小石がとてもよく見える。
感激したように水場を眺めるエステルを見つめていた青年が指摘したのは、手入れが追いつかなくて元の色からはかなりくすんでしまった髪。
青年の白銀に輝く髪には到底敵うはずもないが、母譲りの銀髪は周りでもあまり同じ色を持っている人はなく、エステルの自慢のひとつだった。
「ここの水は自由に使ってよい。身を清めるのなら、それもよかろう」
髪の事を聞いてから何を話すわけでもなく、言いたいことを言って青年は姿を消した。その姿が一瞬にしてかき消えたのを、エステルは呆気に取られたようにぽかんと口を開けてただ見送るだけ。
カサリと揺れた草の音で我に返ったエステルは、青年の言葉に甘えて水浴びをしようと準備を始めた。
母の療養のための離れに浴室はあったが、自分一人になってからはお湯を沸かせるだけの薪を用意するのが難しくなったために、肌寒い時期には水で浸したタオルで体を清めるだけにしていた。
こうして全身で水に浸かるのは本当に久しぶりだ、とこんな状況なのにエステルの気持ちは浮き足立つ。
そっと足先をつければ、じわりと冷たさを感じるが、肌を刺すほどではない。思い切ってざぶんと腰まで入ってみたけれど、鳥肌が立つこともなく、不思議な事にほんのりと温かい気さえしてくる。
手入れ道具はなくとも今出来るだけの事を、と髪の毛を丁寧に手櫛で整えたエステルは、思っていた以上に水場にいたようだ。それでも、体は凍えることなく指の先だって温かいままだ。
体を拭けるような布を持っていないから、手で水を払うような仕草を見せると、どこからか風が吹いてさあっとその体に残る水滴を弾いていく。
この水場といい、先ほどの風といい。不思議な力が働いているのは明らかだったが、エステルに害をなすようなものではない。だからこそ、エステルはその力を感じるごとに嬉しそうに微笑んで頭を下げていた。
「ふむ、やはり縁はあったか」
「え、ええっと……」
水場のほとりに座り、元の色に近くなったような気がする髪の毛を結わいていると、突然背後から青年が現れた。
そのタイミングのよさにも驚いたが、水を浴びただけで何も変わっていないはずのエステルのどこを見て縁があったのだと思ったのか。
驚いたエステルだったが、続いた青年の言葉に思わず息を止めた。
「その髪色、その魔力。クレアに縁ある者ではないのか」
それ、と青年が指差したのは、エステルのくすんだ灰色の髪。さっき水を浴びたときにしっかり指を通したが、しばらく手入れできてなかった髪はまだ灰色にしか見えない。
魔力、と青年が告げたことよりもなによりも、エステルが呼吸を止めるほどに驚いたのはその名前。
「クレアはわたしの母です。
……どうして、母の名を」
もう自分以外は呼ぶことがないと、そう思っていた母の名前。それがどうして、このような森にいる青年の口から、しかも縁があることを嬉しそうに告げられたのか。
混乱するエステルの耳に届いた青年の言葉は、今までで一番の衝撃となった。
「ここは聖域。我ら妖精の住まう地。故に、愛し子でなければ入ることはおろか、見つける事すら叶わぬ」