36.
「ル、ルクス?」
「エステルは、ただ頷いてくれればいいんだ。そしたら、俺が全部終わらせるから」
エステルの震える手に気づいたのか、ルクスがにっこりと笑顔を見せる。いつもだったらその顔が見えることに安心を覚えるのに、今回は安心どころか、震えが止まらない。
声も表情も、エステルに向けられてはいないのにルクスが怒っていると確信できるのは、周りの妖精たちの動きと、感じる魔力がいつもと違うからだ。
「終わらせるだなんて、随分な物言いじゃないか。妖精の分際で!」
クロイツの怒りに呼応するように、魔力が鋭さを増していく。座り込んだままのマリーリアを守るようにしゃがんだエステルの前には、大きな光の膜が出来ていた。カンカンッと甲高い音が響いた後に、裂いていた花がぶわりと空に舞い上がる。花びらや葉っぱに茶色が混ざっていた事に気づいたのは、マリーリアだった。
「エ、エステル様……」
「マリーリア様、ここにいれば大丈夫ですから。怖いでしょうし、目を瞑っていてくださいませ」
クロイツはともかく、ルクスが魔法を使っている姿を見慣れたエステルは、マリーリアよりも少しだけ余裕があった。とはいっても、ルクスが怒っていることは間違いないし、何かの拍子で今度こそ傷つけてしまわないかどうか、気が気ではないけれど。
マリーリアが何か言いかけたのを、この状況に怯えているのだろうと受け取ったエステルは、安心できるようにぎこちないけれど笑顔を浮かべた。
その瞬間に響いた鈍い音でマリーリアは頭を抱えて縮こまり、エステルはその音の出所を確かめようと視線を巡らせた。
「はっ! 呼ばないなんて言いながら結局妖精に頼るんじゃないか!」
純粋な力比べではルクスに勝てないと踏んだのか、クロイツがエステルに罵声を飛ばす。その体は土ぼこりに塗れていて、さっきの鈍い音は倒れ込んだ時のものだろうことは想像がついた。
さっきまでとは反対の手を掴まれているから、ルディアーナはその隙に逃げようとしたのだろうか。クロイツほどではないが、同じように土ぼこりで汚れてしまっている。
対するルクスは服の乱れもなく涼しい顔で立っているが、いつでも反撃できるように魔力を自分の手元に集中させているのが分かる。
「あんたが魔法に頼るのと、同じだけど?」
「頼るだと? 使えるものを使って何が悪い!?
あんたの愛しの主サマには使ってないだろうが!」
「エステルには、な」
「っ! 何が言いたい!」
直接狙ったわけではないから、エステルには使っていない。そんな子供のような言い訳を口にしたクロイツが手を振りかざす。それに合わせて襲ってくる風の刃は、エステルの前に作られた光の膜を壊すことなく、カンカンと音を立てるだけ。
含みを持たせたルクスの言葉に、クロイツが一瞬だけ肩を揺らした。すぐに気を取り直したように叫んだが、風の刃が止んだその一瞬をエステルは逃すことなく捉えていた。
「ルクス、どういうこと?」
「エステルさ、おかしいと思わなかった? これだけ人間がいるなかで、ここに誰も来ない事」
「そ、そう言われれば確かにそうね。向こうの声が聞こえるんだもの、わたし達の声だって聞こえるわよね」
「そいつは得意気にしてたから声もでかかったからね。なのに、ここには俺以外誰も来ていない」
マリーリアに連れられて来た時、ボリュームは小さくなったけれど初めは人の声が聞こえていた。
クロイツと言葉を交わし始めてからはそこまで気が回らなかったから、言われるまで気づかなかった。けれど思い至ってしまえば、今この場でのやり取りの声の大きさや、魔力の高まりに向こうにいる人達の誰も気づかないというのは、確かにおかしい。少なくとも、エステルに魔法を教えてくれているヴィオラは感づくはずだ。
「答えは簡単。そいつが、魔法を使ってこの場所の音を遮っていたからだ」
「そんな事が出来るなんて」
「そこそこ魔法が使えて、それなりに魔力があれば出来る事だ。だけど、相手が悪かったな。風は、俺も得意なんだよ」
エステルの胸元で輝く宝石に、ルクスが視線を向ける。母の形見のネックレスをルクスが直してくれたのは、そう前のことではない。
呆然としたまま、思わず口から漏れただろう言葉に返事があったことに驚いたマリーリアがのろのろと顔を上げた。その瞳が映したのは、勝ち誇ったように笑うルクスと、それを真っすぐに見つめるエステルの横顔だった。
「それがどうした。俺が魔法を使っていたという証拠はどこにもない!」
「魔法は、な」
「なんだと……?」
ざわり、向こう側からいきなり聞こえるようになった喧騒に、エステルは首を傾げた。クロイツに意識を向けていたとはいえ、悲鳴が混じるような騒ぎを全く聞き取らなかったのはどう考えても不自然だ。
同じような事にクロイツも思い当たったのか、ルクスを睨み付けていた視線が訝し気なものへと変わる。
「俺さ、あんたがいるとは思っていなかったし、ここまでするのは過保護だって呆れられてたんだけど」
そっとエステルの頭に触れたルクスが、ゆっくりと手を動かした。慎重な手つきでクロイツの前に差し出されたのは、先ほどまでエステルの銀髪を彩っていた花だ。
黄色に色付いていた花弁の先端は真っ白に色を変え、中心から枯れ始めたように茶色になっている。邸を出る前、髪に飾ってもらう時に見た花にはそんな枯れた様子などなかったのに。
「ルクス、それって」
「エステルには、純粋に楽しんでほしかったから何も説明しなかったんだけどね。
この花、溜め込んだ魔力によって向けられた魔法を無効化できるんだ」
ほらね、とまだ無事な花弁にルクスがゆっくりと魔力を注いでいくと、白から黄色へと徐々に変化していく。その変化の美しさに目を離せないでいると、花弁がはらりと落ちた。それは、地面につく前に光となって消えていく。
本来だったらそこまで強い魔法を打ち消すほどの効果は期待できないらしいが、満月を浴びて咲いた花に、魔力を込めたのは妖精のルクス。溜められる限界を超えて光に還るギリギリのラインまで魔力を込めたことを、妖精王には過保護だと言われたそうだ。
けれど、今回はルクスのその過保護が、いい方向に働いた。
「つまり、エステルがこの場所に来てからの言動は、全部伝わってるって事。
向こうにいる、人間たちにね」
「まさか! そんな花があるわけ」
「あるじゃん、ここに。それよりもいい加減、その手放しなよ」
冷や汗を流しながらも花の存在を認めようとしないクロイツに、ルクスが鼻先まで詰め寄った。その距離の近さに思わずのけ反ったクロイツの腕を、ルクスが払う。この騒ぎのなかでもずっと放そうとしなかったルディアーナが、ようやく解放される。
「ルディアーナ!」
マリーリアを支えていた手を離し、ルディアーナのもとに駆け寄ったエステルは、その体に怪我がないかを確認していく。クロイツの隣にずっといたから、黒かった服は土ぼこりを被っているし、所々は風ですっぱりと切られていたけれど、肌を傷つけた様子はなさそうだ。
安心して肩をなで下ろしたエステルが、あれと目を見開いたのと同時に、後ろから険しい声が響く。
「……話は、すべて聞こえていましたよ。ラージル伯爵令息?」
「お前っ!」
「ヴィオラ様!」
「エステル様、マリーリア様。それから……」
ヴィオラは、ルディアーナに一度視線を送るだけで、名前を呼ぶことはなかった。事情を知らないはずはないけれど、この場で名前を出すとエステルだけでなくルディアーナにも余計な詮索がなされてしまうと配慮してくれたのだろう。
エステルが小さく頭を下げたことに、少しだけ表情を柔らかくしてくれたことが答えだと取って良さそうだ。
「クロイツ様。我々とご同行願います」
クロイツからエステルたちの姿を隠すように立ったのは、詰襟の制服を着た男性二人。かっちりとした着こなしは、それだけで緊張してしまう。それは、エステルだけではなかったようだ。マリーリアやルディアーナも、きゅっと口を引き結んで男性たちの様子を伺っていた。
「お前たちに連れられずとも、自分の足で向かう!」
「そうですか。では、こちらへどうぞ」
腕を取られたことが不服だったのか、振り払ったクロイツはそのまま宣言通りに自分からこの場を去って行った。