30.
エステルの周りを心配そうに飛び回っている仲間に紛れたルクスは、様子を伺うようにその場にしばらく留まっていた。けれど、エステルが自分の姿を見つけることなく背中を向けたことで、ふらりと街中に飛び出した。
この姿でいた時の方が長いのに、久しぶりのような気持ちになったルクスは、初めは面白そうに街中を気ままに飛び回っていたけれど、ふと胸の中にモヤモヤが溜まっている事に気がついた。
振り払うように勢いをつけて飛んでみたけれど、モヤモヤはなくなることなく、むしろ増えていっているような錯覚さえ感じてしまう。
こんな時はどうしていたのかさえ思い出せず、冷たい水でも浴びれば気分も変わるかと考えたルクスは、聖域へと向かった。
「おや、供はどうしたのだ」
小さい姿が久しぶりだと思えるくらいに馴染んでいた青年の姿。泉のほとりに座り、水面に映る自分の姿を見ても違和感などどこにもない。あるとするならばいつも隣にあった銀の髪が見当たらない事だ。最初に振り払うような事をしたのは自分なのに、モヤモヤが消えないのはどうしてだろうか。
ばちゃばちゃと水面を揺らしていたルクスに声をかけたのは、妖精王。少しだけ揶揄うような声色だったけれど、それが本心からではないことくらい、すぐに分かった。
「お前はもう少し要領が良いと思っていたのだがなあ。長く生きても予想通りとはいかぬものだ」
さくさく、といつもなら立てない草を踏み分ける音を鳴らしながら近づいてきた妖精王は、そのまま反応のないルクスの隣に腰を下ろした。
ルクスの気がついた時には、周りにいたはずの仲間はどこかに姿を隠していて、妖精王と二人きりになっていた。だからだろうか、恥ずかしくて見せないようにしていた不安が、するりと口から滑っていったのは。
「俺、どうしたらいいのか分からなくなりました」
頭の中に巡るのは、どうして、と問いかける泣きそうな声。きっと自分の行動に理由があるだろうとは分かったけれど、それがどんな理由なのかはルクスには分からない。
「エステルを苦しめる奴なんて、どうなってもいい。なのに、エステル本人が庇うんです。俺には、怒鳴ったのに」
小さな声で付け加えたルクスは、不貞腐れたように唇を尖らせている。その様子を見て、妖精王は少しだけ表情を変えた。
ルクス、そう人間から名をもらったこの妖精が生まれたのは、クレアが身ごもった頃だっただろうか。それからずっとクレアを守るかのように過ごしていたのに、赤子が産まれてからはそちらにつきっきりになった光。他の妖精たちも同じような動きをしていたし、人間の赤子などそう見る機会もないから興味を引かれるのも無理はない。
そう思っていた妖精王が、ずっとエステルの傍にあるたった一つの光に気がついたのは、偶然だった。
少しだけ先に生まれたからまるで兄のように振る舞う様子は、妖精王には微笑ましく見えた。エステルの言う騎士はある意味、的を射ているのだとすら思ったくらいだ。
ここで主とした人間を見限るのも、本人次第。けれど、この小さな光がずっと傍にあったことを知っている妖精王は、出来る事ならその気持ちや、今までの想いは報われて欲しいと感じている。
「お前は、何のためにあの娘を主とした。己が力を誇示するためか?」
「っ!」
「そうではないのだろう? ならば、お前が望んだのは何だ?」
妖精王に問いかけられたルクスは、息をゆるゆると吐き出している。自分が主と仰いだ時の事を思い出しているのか、少し俯いた表情は暗い。
これでも妖精王は、エステルのことを気に入っている。そうでなければわざわざ自分の宿り木の管理を任せようとも、そのために後見になろうとも言い出さない。
けれど、それ以上にルクスとエステル、という二人が並んでいる姿を気に入っているのだ。まだぎこちなさは残るけれど、お互いがお互いを大切に思っていることはすぐに分かる。
今回の件は、妖精と人間の間にある認識の違いを確かめないままにいたからこそ、起こってしまったのだろう。
被害を受けた人間は少しだけ間が悪かったとは思うが、非は明らかに向こうにあるのだから自業自得、というやつだ。ルクスも頭に血は上っていたようだったけれど、残るような傷は負わせていないようだから、自分が手を出す必要はない。
そう結論付けた妖精王は、ルクスの反応を待つ。これでルクスがエステルの傍に戻らないと決めたのだったら、自分が優先するのは妖精であるルクスの方だと思いながら。
「あーー! もう! 俺が欲しいのはあんな泣きそうな顔じゃなくて花みたいな笑顔だ!」
「……惚気か?」
「ちがっ! 違います!」
ばしゃん、といきなり水面を叩いて水しぶきを上げた後、盛大に惚け始めたルクスに半目を向けた妖精王の声は、明らかに呆れていた。
「まあ、良いではないか。自身の主を花と例えるなど、なかなかに風情のある」
「笑ってくれていいんですよ……恥ずかしい」
金髪から覗く耳まで真っ赤にしたルクスは、くすくす笑う妖精王から視線を逸らすように下を向いた。
何にせよ、気持ちの方はもう吹っ切れたようなので心配はなさそうだ。あとはきっかけさえあればどうにかなるだろうと思っていた矢先に感じたものに、妖精王の口がゆっくりと弧を描く。
「さて、ルクスよ。どうやらお前の主が望んでいるようだ。行けるな?」
「はい! ありがとうございました!」
この聖域に戻って来た時のふらふらと風に吹かれれば消えてしまうような儚さなどまるでなかったように、光の筋を残して飛んでいったルクスを見て、妖精王は目を細めた。
*
姿を見せて。そう願っても、これがルクスの元まで届くかどうかなんて分からなかったエステルは、何の変化もない空を見て溜め息を吐いた。
一応、ルクスが飛んできても大丈夫なように部屋の窓を開けてみたものの、見えるのは綺麗に晴れ渡った青空だけだ。流れる雲のどこかに、ルクスが見えないだろうかなんて思ったエステルの耳に届いたのは、待ち望んでいた声。
「……エステル」
「ルクス」
窓から外を見ていたエステルの背後にいつの間にか立っていたルクスは、視線をあちこち彷徨わせていて、目を合わせようとしない。
ヴィオラの話を聞いて、ルクスとちゃんとに話をしようと決めたエステルだったが、いざ本人を目の前にすると何から伝えればいいのかが分からず、沈黙が流れてしまう。
「ルクス、あのね、その……」
「待って、エステル。俺から先に言わせて。
ごめん、自分の考えだけで行動して」
窓を閉めたエステルがしどろもどろになっている間に、ルクスががばっと頭を下げた。その様子にぽかんとしてしまったエステルだったが、ハッと我に返ると慌ててルクスの傍に寄っていく。
「ルクス、頭を上げて。
わたしこそ、ごめんなさい。わたしの事を守ろうとしてくれたのに、酷いことを言ったわ」
「いいんだ。だって、俺がエステルの気持ちを蔑ろにしたんだから」
「それならわたしだって……!」
大きな声を上げたエステルが、不意に言葉を途切れさせる。頭を下げたままだったルクスが、中途半端なところで止まったことを不思議に思って顔を上げると、エステルの瞳から涙がこぼれ落ちる。
「ごめんなさい、だけど、嬉しいの。ねえルクス。戻ってきてくれてありがとう」
止まらない、と袖を伸ばして目元を擦り続けているエステルの手を、そっとルクスが掴んだ。じんわりと伝わってくる体温が、いつもよりも熱いような気がした。まだじんわりと滲む視界なのに、ルクスの顔が赤いことは分かった。
「ルクス、今日はいっぱい、いっぱい話しましょう。ルクスが何を思っていて、何が好きなのか、全部聞かせて」
「長くなるよ?」
「いいのよ。その代わり、わたしの話も聞いて欲しいの。苦手な事も、ちゃんとに伝えるから」
「分かった。眠ったら、ほっぺ伸ばして起こすからね」
掴まれた手はそのままにして、エステルはルクスと一緒にソファーに身を預けた。何か物足りないと思っていたところは、いつの間にか居場所を作っていたルクスが傍にいる事でかっちりとピースが嵌ったかのような感覚になった。
一度だけベルを鳴らして飲み物と軽食をお願いしたけれど、少し離れていた時間を埋めるかのように話を続けるエステルとルクスは、外が暗くなっても話を止めることはなかった。
「あらあら、旦那様にお伝えしなくては」
こっそりと様子を伺いに向かったヴィオラは、ソファーに凭れたまま、お互いの肩に頭を預けるようにして眠る二人を見てそっと笑った。
風邪をひかないように、と上掛けを用意して、灯りを落としたヴィオラはそのままダリルとイルハルドに連絡をするべく、静かに部屋を出た。




