3.
王都の夜は明るい。けれど、大通りを外れたら灯りは少なくなる。周りが暗くなれば明るいところを歩きたくなるのは、誰だって同じだろう。
着古したワンピース、手入れの行き届いていない灰色の髪。明らかに訳ありの少女が、陽も落ちた時間に暗がりに向かって走って行く。
人目もはばからず涙を流しているエステルに、すれ違う人々はギョッとした様子で視線を送るが、それだけだ。結果として、エステルが街の外にある森に辿り着くまで誰からも声をかけられることはなかった。
「お母様、ごめんなさい」
エステルの心の中を占めているのは、形見のネックレスを壊されてしまったことの悲しみ、それからずっと言われていたのに、あの時確かに自分はルディアーナを、そして好き勝手に振る舞う事を容認しているカーラの事を憎んでしまったという後悔。
ルディアーナの顔を見たくない、と当てもなく離れを飛び出してきてしまったけれど、エステルはこの街のすべてを知っているわけではない。
エステルが屋敷内の森と呼んでいた場所でさえ、王都の中ではただの庭となる。そして灯りも少なく、ただやみくもに走ったエステルが迷子になるのは、当然だった。
「……ここは、どこかしら」
最近になって身の回りのことを一通りこなすようになったとはいえ、エステルは伯爵令嬢だ。
夜に一人で出歩くことも、息が切れるほどに自分の足で走ることだって、したことがない。
人のいない方へと行く先を選んだことで、街の外に出てしまったことにも、今になってようやく気がついた。
気がついたが、それはもはやエステルを引き留める理由にはなり得ない。
「どこでも、構わないわ。もう、疲れた……」
拾い集めて握りしめたままのネックレスを見れば、止まったと思ったはずの涙はまたあふれ出す。細いチェーンは金具こそ繋がっていたが、肝心のチェーンがぶつりと切れてしまっていることに変わりはない。着の身着のままで飛び出して来たエステルが直すことは不可能だ。
例え道具を持っていたとしても、切れたチェーンは新しい物と取り換えなければエステルの首を飾ることは出来ないだろうけれど。
「静かな森ね」
獣がいるから一人で行ってはいけないと教えられた森にいるのに恐怖を感じることはなく、むしろ安心したような気持ちがエステルの足取りを軽くする。さくさくと自分が草を踏みしめる足音のほかに、さあと風に揺られる木の葉のざわめき、遠くから響く鳥の声しか耳に届かない。
いっそのこと獣に食いちぎられてしまえば母と会えるのではないか、そんな考えがエステルの脳裏をよぎる。わずかばかり期待はしていたが、本当にそうなってしまったら、家を継ぐ人がいなくなってしまう。
「お父様だったら、どこかから養子を組む事なんて簡単なんでしょうけれど」
誰もいない場所だからか、今まで胸の内に秘めていた気持ちを吐き出すように、エステルは言葉を紡ぐ。どうせ誰も聞いていない、ただの迷子のうわごとだ。
夜が明けたら、どうにかして屋敷に戻らないといけないのは分かりきっている。運良く森に辿り着けたとはいえ、エステルは誰の手も借りずに生きていけるはずもないし、フォルカー伯爵家をなくすことだって望んではいない。
ただ、それが果たして自分の望みなのかと聞かれたら素直に頷けはしないだけだ。母が自分に向けてくれたのと同じだけの愛情を父に持っていたことを知っていて、そんな母がいた証を失くしたくないから、家を守っていた。
「これだけ手紙を送っても、顔さえ出してくれないのだから……
もう、わたしの事を忘れているのかもしれないわね」
じわり、とさっきネックレスを見た時とはまた違う感情がこみ上げてきたエステルは、その想いのままにあふれる涙を拭う事もせず、ぼんやりと空を見上げていた。
どれだけの時間、そうしていたのかも分からないが、瞬いていた星が一筋の光となって流れていったのをきっかけに、エステルはハッと我に返った。
「さむい……」
冬を越え、草木に春の息吹が届き始めた頃合いだけれど、さすがに夜になるとまだ体の芯から冷えそうな寒さは残っている。
着ているのは、薄手のワンピースだけ。森の中には上着になりそうなものは当然見当たらないし、暖を取れるよう火を熾せるものだって持ってはいない。
昂った気持ちがそうさせていたのだろう、寒さを感じる程度に落ち着いてきた体は、足の痛みも訴えて来る。
「これはひどいわね」
傷だらけ泥だらけになっている自分の足を見て、思わず苦笑が漏れた。さて、どうしようかと悩み始めたエステルの耳に、小さいけれどさらさらと水音が届く。
「水場があるのかしら。泥だけでも、落としておきましょう」
痛む足を懸命に動かし、音を頼りに方向に見当をつけて歩き出したエステルは、思っていたよりも早く水場を見つけることが出来た。
緊張から詰めていた息を緩く吐き出せば、足先からじわりと鈍い痛みが上がって来る。痛みを堪えるようにぎゅっと目をつぶって靴を脱いで、そっと冷たい水に自分の足を浸した。
「冷たいけれど、気持ちがいいわ」
石畳の上を当てもなく走っていたからか、靴擦れが出来ていた。ピリッとした痛みを覚えたエステルは、ゆっくりと撫でるように滲んだ血と泥を落とし、水から足を引き上げる。
踵に滲んだ血は、今ならまだ固まっていなさそうにも見えたのでちょっとずつ水をかけていく。指の腹で擦れば、少しだけ薄くなったような気がした。
何か、水気を吸い取れるようなものがないかと見上げて視線を巡らせたエステルは、水場のすぐ側にどっしりと構える大木に目がいった。
「ごめんなさい、きれいなお水を汚してしまいました」
ひょこひょこと、靴擦れが出来ていた足を庇うように歩きながら、エステルはその大木の前で頭を下げた。なんとなく、こうしておかないといけないような気がすると思ったらすぐ、体が勝手に動いたような感覚もあった。
そうして頭を下げた視線の先に、小枝に守られるような形でその大木の根元にちょうどエステル一人くらいだったらすっぽり収まりそうな窪みを見つけた。
「それから、ここを一晩お借りします」
思っていた通り自分の小柄な体は窪みに収まった。小枝が視界を遮っているから、外からもエステルの姿は見えづらいはずだ。
獣に襲われてもいい、なんて思っていた自分もいざとなると身を守るような行動を取るのだと、この森に来てからもう何度目かも分からない苦笑いをしたエステルは、目を閉じる。
朝から動いていた上に、おそらく今までで一番長い距離を走り続けた。体はとっくに疲れの限界を超えていたようで、エステルが目を閉じるとすぐに眠気がやって来た。
どうか、次に目を開けた時には優しい世界が広がっていますように。なんて現実逃避もいいところだと思いながらも、やってきた眠気に身を預ける。
出来る事なら、うたた寝に見た夢の続きを、と望みながら。