26.
エステルに会いたい、と伝えてきたダリル。それは社交辞令でもなんでもなかったようだ。イルハルドに予定を聞かれて都合は任せると言ったけれど、きっとしばらく時間は空くだろうとエステルは踏んでいた。
その間に、お茶会に招待されたときのマナーを学び直そうと思っていたのに、そんな暇を与えられることはなく、あっという間に日取りが決まった。
「お父様、ここって……」
そうして決まった日、指定されたのは王城でもダリルの私邸でもなく王都の一角にあるカフェだった。
こじんまりとしているけれど、人の流れはある通りに面しているし、テラス席だってある。エステルはともかく、宰相とその補佐が共に居れば目立つ場所だとは思うのだけど。
そう考えたのは、エステルだけではなかったようだ。振り返ったエステルと、苦笑いをしているイルハルドの目が合った。
「邸で会う事も考えたんだが、後から突かれるような事はしない方がいいと言われてな」
「でも街中のカフェだって目につくんじゃ」
「このカフェはヴィオラのお気に入りだから、融通を利かせてもらえるそうだ」
看板は普通に出ているし、カフェに入っていく人もいるけれど、融通が利くというのならきっとうまく案内をしてくれるのだろう。この何日かで人の目に敏感になったエステルは、少しだけ安心したように息を吐き出した。
妖精王とルクスを連れて街を歩いただけでも注目の的になったエステルの顔は確かに広まった。広まったからこそ、エステルは守られているという認識にもなったことには感謝するしかないけれど、同時にどこにいてもルクスや妖精王の姿を探すような人の視線は正直、疲れてしまう。
「ヴィオラ様、ってダリル様の奥様でしたっけ?」
「ああ、そうだ。留学した経験もあるから、興味深い話を聞けるだろう」
そうして慣れた様子でカフェに入っていくイルハルドの背中を、エステルが追いかけた。パタパタと小さな足音を聞きながら、イルハルドは少しだけ嬉しそうな笑みをこぼした。
「イルハルド、よく来てくれた。それから、エステルも」
店員は、イルハルドが入ってくるのを見るとすぐに席を案内してくれた。そこは、他の客とは顔を合わせないようにと奥に仕切られていた個室だった。
外からは個室があるように見えなかったカフェだったけれど、思っていたよりも奥は広かったようだ。落ち着いた装飾のある通路は、少しだけ明かりも落としてあるようだ。人の顔があまり分からないようにしているのかもしれない。
案内された個室にはダリルと、金髪を緩く編みこんで右側に流している女性が待っていた。
「本日はご招待いただきまして……」
「ああ、今日は気にしなくていい。ここにいるのは私達だけだ」
顔が分かっているダリルに、その隣にいる女性。ここには限られた人しか案内されていないのだから、誰なのかはすぐに想像がつく。慌てて頭を下げたエステルを止めたのは、穏やかな笑みを浮かべたダリルだ。
すっと姿勢を正したエステルに、隣の女性が小さく頭を下げる。ダリルがその動きに合わせて紹介をした。
「こちらが私の妻、ヴィオラだ」
「初めまして、エステル様。そして妖精様。お会いできて大変光栄です」
座ったままの礼だったのに、とてもきれいな動きを見せてくれた女性は、声まで綺麗だった。少しだけ高めの声は、小さくともはっきりエステルの耳をくすぐった。
前日の夜に必死で学び直したマナーを思い出しながら、エステルは案内された部屋の入り口で礼を見せる。
「ありがとうございます。どうぞ、エステルとお呼びくださいませ」
「ふふふ。ではわたくしのこともヴィオラと」
「ではヴィオラ様。本日はお招きありがとうございます」
もう一度礼をしてから、エステルはそっと席に着いた。その様子を見守っていたイルハルドも共に席に着く。ルクスは、少し悩む素振りを見せたけれど、エステルの後ろにそっと控えた。
「こちらこそ、慌ただしい時期にお時間を頂きありがとうございます。
エステル様は甘い物はお好きかしら?」
「ええ、わたしだけではなく」
「あら、妖精様もお好きなの? それならきっとこちらのケーキは気に入ってもらえるわ」
エステルがちらりと視線を後ろに送っただけだったのに、その意図を正しく汲み取ったヴィオラは、きれいに微笑んだ。その笑い方は、どこかダリルと似ていると思える笑顔だった。
見やすいように、と前にメニューを広げてくれたけれど、どのケーキの説明も魅力的に見えてしまって、思わずいつもの調子で悩み始めたエステルは、そっと背中を叩かれた感触で我に返る。
ルクスが小突いてくれたけれど、学んだはずのマナーが吹っ飛んで頭が真っ白になったエステルを助けてくれたのは、目の前で微笑んでいるヴィオラだった。
さらっとエステルとルクスの分まで注文を済ませたヴィオラは、エステルの緊張を解すかのようにとりとめもないことから話し始めた。
おかげで、飲み物が届くころにはエステルの緊張も和らぎ、マナーをそこまで気にすることなく話せるようになっていた。
「それで、ダリル。ヴィオラも共に会いたいとはどういった理由だ」
ダリルとイルハルドは、あれこれ仕事の話をしていたけれど、エステルとヴィオラの様子を伺っていただけのようだ。二人が話しながら笑顔が増えていった様子を見て、本題を切り出したのはイルハルド。
「ダリル様、わたくしからお話させていただいてもよろしいでしょうか?」
「ヴィオラ?」
「イルハルド様もご存じでしょう。わたくしが、専門として学んでいたことを」
留学経験のある才女を妻に迎えた、とその当時イルハルドからは聞いた。もちろん、結婚の祝いも送ったし会ったこともある。けれど、ここしばらくその話を思い出すような機会もなかったので少しだけ思い出すのに時間がかかった。
エステルとはまた違った緑色の瞳をすうっと細めたヴィオラが、教養を深めたいと国を飛び出してまで学んだことは。
「魔法か」
「ええ。その通りです。エステル様、わたくしと共に魔法を学ぶつもりはございませんか?」
ヴィオラの提案は、とても魅力的だ。エステルは素直にそう思った。令嬢としての教養を学ぶのも、妖精の主としての振る舞いを身につけるのともまた違う、魔法についての勉強。
けれど、エステルはそれに素直に頷けないだけの出来事がある。
「わたし、幼い頃に先生から魔法を使うのに向かないと言われているのですが」
母も一緒にいたのだから、ルクスだって知っているだろうし、もしかしたら妖精王も分かっているのかもしれない。今までの短い時間でも妖精についてもたくさん教えてくれたけれど、妖精王から魔法についてどう使うか、とは教えてもらった覚えがない。
だからこそ、エステルは自分が魔法を使えるとは思えなかったし、進んで学ぼうとも思えなかったのだから。
「本当にそうでしょうか。わたくしの目には、エステル様は十分に魔法を使えるように見えておりますが。
妖精様、いかがでしょうか」
緑色の瞳が、ずっと沈黙を貫いているルクスを捉えた。生クリームを添えたシフォンケーキを黙々と食べていたルクスが、視線を初めてヴィオラに向けた。
その視線は鋭かったけれど、ヴィオラも負けじと視線を逸らすことはない。やがて根負けしたようにはあと大きな溜め息を吐いたルクスが、仕方ないとばかりに口を開いた。
「エステル、その人の言う通りだよ。エステルが魔法を使えないなんて、そんな事があるはずがない」
「でもルクス、わたしは小さい頃……」
「それも知ってる。どうしてだか、話そうか」
エステルが魔力の高いことを示している銀髪を持ちながら、魔法が使えない理由は知らない。
イルハルドでさえも教師から詳しくは聞いていない事だった。クレアが生きていれば教えてくれたのかもしれないと思ったことはあったけれど、それは叶うはずもなく。
その理由が、分かるかもしれない。ルクスの問いかけを拒否する理由など、なに一つもなかった。
イルハルドはもちろん、ダリルやヴィオラもルクスに視線を向ける。そうして、ルクスはあの時のエステルに何があったのかを説明し始めた。