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25.

「おはようございます、お嬢様」

「……おはよう、ございます」


 もぞもぞと身じろいだエステルにかけられたのは、柔らかい女性の声。その声が聞こえた瞬間にピタッと動きを止めたエステルは、そろそろと上掛けから顔を覗かせた。

 ベッドの隣に立って笑顔を向けているのは、淡い水色の髪を三つ編みにしてからお団子に纏めた女性。髪と同じ色の瞳を細めて、エステルに綺麗なお辞儀をしている。


「ふふ、まだ慣れないですか」

「そうですね。早く慣れたいとは思っているんですけど」


 エステルが寝ているのは、本邸。家令のハンスに、厨房の古株ゼスト。なにより当主であるイルハルドが全力を尽くして整えたからだ。エステルのことを知らない使用人には今までの説明を、分かっていてカーラに加担していた使用人は全員暇を出すという徹底ぶりを見せた。

 そうでなければエステルを本邸どころか離れにだって戻すつもりはない、と言い切ったルクスの目は真剣そのものだった。

 おかげで、王城から退出したその日のうちに、エステルはフォルカー伯爵家の本邸へと戻った。その時にエステル付として紹介されたのが、今声をかけたメイド。身の回りのことは全て自分でやるようになってからの時間の方が長いエステルは、こうして声をかけられて身支度を手伝ってもらったり側に控えていたりすることに、まだ慣れていない。


「無理をさせてしまっては、私がルクス様に叱られてしまいます」

「俺が何だって?」

「ルクス、おはよう」


 ベッドから下りて上着を羽織ったエステルは、まず髪を梳いてもらう。人の手があって良かったと思うようになった事のひとつだ。自分だけでは、母譲りの銀髪を綺麗に結い上げることが出来ない。

 いつものようにドレッサーの前で準備をしてもらっていると、ひょこっと顔を出したのはルクス。

 成人男性だったら恐らく制止がかかるのだろうが、彼は妖精。そしてエステルのことを主として認めている。あまりにも度が過ぎたスキンシップを取ろうとするとさすがに止められているが、こうして部屋にいるのはいつものことなので、メイドも手を止めてお辞儀をしている。


「おはようエステル。今日はどうする?」

「今日の予定はどうだったかしら……えっと、アーシェ?」

「はい、エステルお嬢様」


 にこりと笑った顔はいつものように見えたけれど、いつもよりも嬉しそうだ。ようやく普通に呼べるようになったその名前だけで喜んでもらえるのなら、もっと早く名前を呼んでおけばよかった。反省したエステルは、これからはもっとたくさん名前を呼んでいろいろ頼れるように頑張ろう、と小さな目標を立てた。


「本日はイルハルド様より夕食を共にしようと言付かっております。おそらく、日の落ちる頃にはお帰りになるでしょう。

 それまでは勉強に励むように、とも」


 アーシェから伝えられた予定を聞いて、エステルは少しだけ考えこむ。

 父から勉強するように言われていることは、貴族令嬢としての嗜みも含まれている。繕い物はそこそこ出来ると思っていたエステルでも、刺繍となるとまた話が変わって来る。他の教養だって同じ年齢の令嬢たちの足元がようやく見えてきた程度でしか習得できていないのだから。

 ちょっとだけ残念そうな顔をするルクスが目に入ったけれど、こればかりはどうしようもない。妖精の主となり、妖精王の宿り木を管理するようになったエステルが、身を守るためにも必要な事なのだと自分にも言い聞かせる。


「そう、ありがとうござ、ありがとう。それなら今日は……」

「これは、私の独り言ですので聞き流していただきたいのですが。

 勉強とは、本を読んで知識を蓄えるだけが全てではありません。体験することも大切だと思っております。

 なにより、今日はとてもいい天気ですから」

「アーシェ」


 ふふ、と小さく笑みを見せるアーシェは楽しそうだ。自分の気持ちを優先にしたら今すぐ頷いてしまいたかったけれど、エステルはその言葉にすぐ頷けなかった。

 ついさっきルクスの顔を見ないようにして、教養に励もうと思ったばかりだったのに。

 考えを読まれているうえに気持ちまで汲んでくれているアーシェには感謝を伝えたかったけれど、ここでは踏みとどまらないといけない。そう思っていたエステルの耳に届いたアーシェの言葉は、とどめとなった。


「このところ、根を詰めていらっしゃる様子のお嬢様に、ゼストが腕によりをかけて食事を用意すると張り切っておりました。

 ……邸を出る前に、お顔を見せて差し上げてください」


 さあどうぞ、と髪を結い終わったアーシェが優しく背中を押す。アーシェだけでなくゼストが絡んでいるのだったら、たぶんハンスと、もしかしたら父だって一枚かんでいるかもしれない。

 けれど、それはエステルにとっては自分の考えを分かってくれているのと一緒だった。嬉しくなって緩む頬をそのままに、ルクスの手を掴む。


「ありがとう! アーシェ! ルクス、行きましょう!」

「あ、ちょっとエステル! 着替え!」



 あの日、王城でエステルが紹介されてから取り巻く環境はあっという間に変わった。フォルカー伯爵家は侍女長さえ御せないのかと批判もあったが、それ以上に妖精の主や宿り木を管理するようになった経緯についての関心の方が高かった。

 当然、エステルについてもあれこれ話が出回ったが、今まで社交界にほとんど出たことがなかったことが意外にも役に立ち、性格や容姿についてはあまり憶測が流れることはなかった。

 出来るだけ外見を磨き、どうにか体裁を整えたエステルが次の日から王都のあちこちに顔を出した時に、傍にいた妖精王とルクスの影響も大きい。妖精の姿を絵本でしか知らなかった人達は、その美しさに目を奪われた。エステルが少しだけ自慢げにその様子を見ていた時に、ルクスがここぞとばかりに仲の良さを見せつけようとすることで、人々はエステルに好意的に接するようになった。

 ここまでルクスの計算だったかどうかは、分からない。ただ、表面上でもエステルと仲良くしておけば、自分にも利があるかもしれないと思わせたことは事実。おかげでエステルは礼儀作法さえまだおぼつかないのに、大量に舞い込んできた招待状を捌く羽目になったのだが。

 定期的に父への手紙を書いていたから、文字の練習はしなくて済むはずだった。それなのあまりに手紙が舞い込んでくるものだから、これは定型文を書き取る訓練だったのかと思わせるくらい。


「ああ、エステルちゃん。これから妖精王様のところに行くのかい?」

「こんにちわ、おば様。その予定です」

「ならこれを持って行っておくれ。エステルちゃんと、そちらの妖精様も一緒に」


 自分の手首を押さえてあの時を思い出していたエステルを呼び止めたのは、近所に住んでいるおばあさん。人の良い笑顔で、小さかったエステルを可愛がってくれていた一人だ。

 貴族らしくないけれど、自分で料理を作るのが好きだというおばあさんの家からは、いつも甘くていい匂いがしていた。そして、目の前に差し出されたのは家から漂って来るよりもずっと香ばしい。


「わあ、ありがとうございます。おば様のスコーン、きっと喜ぶわ!」

「お気に召したならまたいつでも焼くからね。こんなものじゃ罪滅ぼしにもならないさ」

「あれは、妖精とカーラの仕業だったもの。誰も、悪くないわ」


 母が生きていた時に交流のあったご近所の人達からも、全く不審に思われることもなかったくらいにあの妖精の力は強かったらしい。エステルはルクスが傍にいたことであまり影響を受けていなかったのが救いだった、と後から教えてもらった。それでも、こうして優しく見守ってくれていた人の事を思い出せない程度には、エステルだって影響は受けていた。

 ルクスが傍にいてくれて、本当に良かった。スコーンをさっそく頬張っている横顔を見て思う。

 ルクスがいなければ、あの環境に不満も疑問も抱かないまま、伯爵家は今頃カーラの物になっていたらしいから。


「ルクス様、あのっ……これ、差し上げます!」


 おばあさんからバスケットいっぱいのスコーンを受け取り、ルクスのつまみ食いの手との攻防をしていたエステルの前に、一人の令嬢が姿を見せた。

 庇うように前に出たルクスの表情には、さっきまでの楽しそうな様子などどこにも見当たらない。エステルは慣れたけれど、令嬢はその変化に少しだけ身を引いた。それでも、意を決したように持っていた花束をルクスに向かって差し出して声を上げる。


「悪いけど、主以外からは受け取らない事にしてるんだ。気持ちだけもらうね」

「そ、そうですか……」


 震える手を引っ込めて、泣きそうなのにそれでも笑顔を作ろうとした不器用な笑い方を見せて、令嬢はさっと踵を返した。角を曲がったところで友人に待っていてもらったのだろうか、わっとわずかに上がった泣き声は、ルクスには質の悪い芝居のようにしか聞こえなかった。

 足を止められて若干不機嫌そうなルクスに、エステルが素直に思ったことを口にする。


「えっと、見つめられたのはどうしてかしら?」

「エステルが俺の事一人占めしてるって思ってるんじゃない? そんなわけないのにね。

 さ、スコーンが冷める前に早く行こう」


 ちょっとした見世物のようになり始めた、ルクスへの贈り物。今まで誰からも物を受け取らないルクスが唯一手を伸ばすのは、エステル。さすがにこの短期間でも学んだかと思ったのに、そうでもない人間もいたらしい。向こうの角から聞こえてくる泣き声を慰めるような声まで聞こえてきたルクスは、さっさとこの場を離れようとエステルを促した。


「去り際にエステルのこと睨むような奴になびくはずないのに」

「ルクス? 何か言った?」

「ううん、エステルからだったら花一本でも嬉しいなって」

「遠回しに、お菓子を催促されているのかしら?」


 ルクスの耳に届いていた声は、どうやらエステルまでは辿り着かなかったようだ。それはルクスが望む事だったので当然だと言えばそうなのだが。

 令嬢を見てから少しだけ強張っていた表情は、ホッとしたように安心した様子を見せている。話を逸らしたかったわけじゃなくて、本心からそう告げたのに、エステルは冗談のように取ったようだ。けれど、その提案はルクスには非常に魅力的なものだった。


「え、作ってくれるならこの間のがいいな。えーっとあのクリームいっぱい入ってた……」

「シュークリームね。ゼストに教わらないとまだ上手く作れないけれど、いいかしら?」

「もちろん! あの人、口下手だけど料理は上手いんだよね」

「それ、ゼスト気にしているから本人には内緒よ?」


 くすくすと笑いながら話す様子は、何も知らなければ仲の良い友人よりも一歩進んだ関係に見える。エステルはそう思っていなくても、ルクスは周りがそう取ってくれることは大歓迎だ。自分の主に変な虫がつく事態を避けられるのであれば、どんな手段だって使ってみせると思っているのだから。

 そうして仲の良さを見せつけながら王都を抜け、聖域に辿り着いたエステルはまだ温かさの残るスコーンを妖精王へと届けることが出来た。


「ああ、これは美味いな」

「おば様に伝えますね。少し置いていきましょうか」

「ここに置いては冷えてしまう。持ち帰ると良い」


 気に入っていたルクスはすぐに手を伸ばし、一緒に添えられていたジャムの瓶も出して味わっている。食べ物にあまり興味のなさそうだったルクスだったけれど、しばらく一緒にいれば好みだって何となく分かってくる。とりあえず、初めて見るものは口に入れてみるようだけれど、酸っぱい物よりも甘い物の方が進みは早い。


「人の作るものは、特に気持ちがこもっていると分かるものは美味しく感じるものだ。

 どれ、今日はその辺りの話でもしてやろうか」

「お願いします」


 そうして聖域で妖精の事を学び、ルクスからも主としてはこうしてもらえると嬉しいといったアドバイスも受け、空になったバスケットを持ってエステルは家に帰った。たっぷり詰められていたスコーンは、持ち帰る予定だったのに話が盛り上がったことですっかりとなくなってしまった。そのほとんどはルクスが食べていたけれど。エステルはこれから夕食の予定があるから控えめにしていたはずだったのに、ついつい手を伸ばしてしまった。スコーンが美味しすぎたせいだ、なんて言い訳をして。


「お帰りなさいませ、エステルお嬢様。

 おや、そのバスケットはいかがなさいました?」

「二軒先のおば様から、妖精王へ差し入れを頂いたの。何かお返しを詰めた方がいいかしら?」

「ああ、でしたら我が家の庭で採れる果物をお届けしておきましょう」


 迎えてくれたのは、ハンスだった。エステルの言うおば様が誰だかすぐに分かったハンスは、一番喜びそうな物を伝える。それは、きっと形を変えてまたエステルの手元に届くと知りながら。

 自分と同じように、エステルが苦しんでいる時に手を伸ばせなかったことを後悔していると理解しているハンスは、感情を悟らせないようにお手本のような笑顔を貼りつけた。


「お嬢様、食堂に向かう前にお召替えをしましょう」

「ええ、と気をつけていたんだけど、汚れているかしら」

「いえ。ゼストが張り切り過ぎてもう少しだけ時間が欲しいと」

「ふふっ、そういうことなら、喜んで」


 裾の長いドレスを着ることがほとんどになったエステルは、動き回っていた時のように大きく一歩を出してしまう。慣らしの段階だからと目を瞑ってもらえているが、ヒールのある靴を履くことになれば、ドレスの裾を引っ掛けてしまうというのだから、早く身に着けないといけないとは分かっている。気を付けていても、今までの癖というものはなかなか抜けてくれなくて、エステルはいつものように視線を裾に向けた。

 ところが、こっそりと内緒話のようにハンスから告げられたのは、思ってもいなかった理由だった。目を丸くしてから笑い出したエステルに、ハンスも貼り付けたものではない笑顔を向ける。


「部屋にアーシェを待機させています。ルクス様、どうぞお嬢様をお願いいたします」

「頼まれなくても」


 ハンスの言葉通り、待機していたアーシェはあっという間にエステルの支度を整えていく。ちょうど着替えが終わったタイミングで顔を見せたルクスと一緒に、エステルは父が待っているという食堂に向かった。

 ゼストが時間が欲しいというだけのことはあり、いつもよりも手の込んだ料理が並べられていく。エステルとイルハルド、それぞれの好みに合わせて作ってくれるゼストの料理はいつも温かく、食べるたびにエステルは幸せな気持ちになる。


「エステル、ちょっと今後の予定のことで相談なんだが」

「はい、なんでしょうお父様」


 積み重ねていた手紙の返事は、少しずつ届いている。それはこういった話の場であったり、夜にこっそり届けられるカードだったり形は様々だったが。お願いしてどうにかなるものではないけれど、エステルの積み重ねた思いを全部解くころには、今も、少しだけ警戒した様子で自分の後ろに立っているルクスの態度も変わっていればいいと思う。


「落ち着いた頃でいいんだが、ダリルと奥方が会いたがっていてな。時間を作ってもらえないだろうか」

「ダリル様、宰相閣下ですよね。お父様の上司に当たる」

「ああ、学生からの腐れ縁でもある」

「それなら、ご都合に合わせていただいて構いません。わたしの、礼儀の拙さは大目に見ていただけるのなら、ですが」


 宰相、父の上司。その言葉がエステルの頭をぐるぐる回る。自分のことで手間を取らせてはいけないけれど、情けないことにまだ人前に出るには満足な礼儀を身に着けていないことも事実。目を背けたエステルに、イルハルドの優しい声が届く。


「宰相ではなく、ダリルとして招待したいと言っていたから大丈夫だろう。奥方、ヴィオラも会いたがっていたからな」

「そういうことであれば、喜んで」

「では、予定が決まったら伝えよう。良く休みなさい」


 デビュタント以降、お茶会そのものに出たことがないエステルにとって、これが初めての招待だ。父の友人とはいっても、相手は宰相閣下。きちんと振る舞えるだろうかという不安と、ほんの少しのワクワクする気持ちを胸に、エステルはベッドに潜り込んだ。


「さて、あのご婦人の得意なものは何でしたかね」


日も暮れたけれど、この時間なら婦人が星を見ながら手慰めに刺繍をしていることをハンスは知っている。今なら届けた果物をどう料理するかを考える時間になるだろう。

エステルからバスケットを預かったハンスは、静かに庭に出た。見回りをしていた若い使用人に声をかけながら、ハンスは熟しているだろう果実を選んでいく。


「それ、まだ青いよ」

「……! ルクス様」


 誰もいないと思っていたのに、突然かけられた声に驚いたハンスは、ハサミを落としそうになった。思わず握りしめた手が、手元の果実を切り落とす。


「青いって言ったのに。けど、ジャムにするならそれくらいがちょうどいいか」

「どうして、こちらに」

「エステルにくれたのが、美味しかったから」


 邸を飛び出したエステルが連れ帰った妖精、ルクス。エステル以外の人間には関心のひとつすら寄せない態度だったとハンスは記憶していた。もちろん、その理由が自分にあることにも。

 だから、こうして声をかけてきたうえに、有益な情報をもらえるだなんて思ってもいなかったから驚いたのだけど。それは、幸か不幸かルクスには伝わらなかったようだ。


「左様でございますか。それでは、このハンスにどちらの実が良いかをご教授いただきたく存じます」

「……その変な話し方、止めてくれたら」

「これは性分にございますので。どうかご容赦くださいませ」


 雪解けは、案外早いかもしれない。主人にそう伝えようと思いながら、ハンスは言われるがままに果実を採る手を伸ばした。

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