22.
国王から案内された部屋は、装飾はあるけれど落ち着いた内装だった。謁見室にいた時間が長く、目がちかちかしていたエステルは、ほっと息を吐きだした。
そういえば、と最初に飛び込んだ国王の私室は似ている雰囲気だった事を思い出す。もしかしたら、その部屋でのエステルの様子を見ていた国王が、わざわざこの部屋を選んでくれたのかもしれない。
聖域で過ごしてからここまで、目まぐるしく変わっていく事態についていくために必死だったエステルの体から、緊張が抜けていく。ベッドに腰掛けてその手触りの良さを堪能していたら、窓の外を見ていた妖精王から声がかけられた。
「今日はベッドに飛び込まんのか?」
「その癖は小さい頃だけです、けど……このベッド、ふわふわだわ」
小さい頃は、母が寝ていたベッドがとても大きくて、勢いをつけないと乗れなかった。それが、結果として飛び込むように見えていたのだろう。妖精王は小さく笑っていたが、目元は懐かしい物を見るように細められていた。
見られていたことが恥ずかしいのか、少しだけ唇を尖らせたエステルだったが、さらさらと上を撫でるだけでも、手のひらにはふわふわな感触が伝わってくるベッドの誘惑は、とてもじゃないけれど抵抗できそうにない。
「エステル、誰も見てないよ?」
「うぅ……ルクスに、背中を押されたから、ですよ。わたしは、これから貴族の令嬢として、妖精の主として、それから、妖精王の後見を受けるのにふさわしくならないといけないんだから」
「けど、今はただのエステルだ。ちょっとは気を緩めないと。緊張のし過ぎは体に悪いだろ?」
結局、あれこれと言いながらもエステルはベッドにそのまま倒れ込んだ。ふんわりと体を包む心地良さに、思わず言葉にならない声が漏れる。
口にしたのは、本音だ。自分が伯爵令嬢としてふさわしい振る舞いが出来ていれば、妖精のことについてもっと知識があったなら。妖精王に後見についてもらうなんてたぶん例のないことは起きなかっただろうし、国王陛下や父を悩ませることだってなかったはずだ。
どれから学ばなければならないかすらエステルには分からないけれど、どれだけ大変であろうともやってみせる、そう決めたから。
だから、今だけはこうしてふわふわなベッドを存分に楽しむことを許してほしい、なんて誰にも言わない言い訳を心のなかで積み重ねた。
「添い寝が必要か?」
「いくらあなたでも、その役目は譲りませんよ」
「ちょ、ちょっと王様もルクスも何言ってるの!? 一人で寝れます!」
言い訳をしなくても、この妖精たちはエステルがどう振る舞おうとも全てを肯定してしまうような気配があるのだけど、ルクスはともかく、妖精王は母と接していた時間もあったのだから、自分との違いに呆れられてもおかしくはない。
けれど、実際にはこうやってエステルのことをからかうようにして、気持ちを楽にしてくれるような事ばかりを伝えてくれる。
本気とも冗談とも取れない事を言い出すのは、本当にびっくりするからやめてほしいとは少しだけ、思うけど。
「宿り木の下では一緒に寝てくれたのに」
対抗するように、ベッドのふわふわ具合を楽しんでいるエステルの手を、ルクスがぎゅっと握る。見上げた表情は、僅かに眉を寄せているだけだったが、不満がハッキリと見て取れた。
「それはルクスが小さかった……光だった? でいいのかしら?」
「あの姿にも、なれるよ。けれど、姿を見せておくのはこっちの方が都合がいいんだ」
聖域でルクスがこの姿を得るまでは、エステルの目に映っていたのは小さくて暖かい光。今更ながら、エステルはどうしてルクスが大きな人間のような姿になったのか、正確なところを聞いていない。これから勉強を進めていくうちに、分かるだろうか。
「妖精の主だって言っても、あんな小さい妖精しか従えていないのか、なんて言わせたくないから」
「それは、わたしにも問題があるんじゃないかしら。マナーのなっていない小娘なのは本当だもの」
エステルは、変わったつもりはない。むしろこれから変わらなければならない。けれど、周りから見る目は、変わってしまう。それを分かっているから、国王やイルハルドはエステルに身分がないことを危惧し、妖精王は後見につくと言った。
カーラやルディアーナと違い、エステルのことをちゃんとに見てくれる人達がいるからこそ、エステルは自分のことを追い込むような考えは変えなくてはと思う。けれど、あの邸で長い時間そうしてきた分を聖域で傷を治してくれた時のように、すぐに直すというのはなかなか難しい。
「もちろん、これからそう言われないように頑張るわ。だから、ルクス。一人で抱え込もうとしないで。
二人で一緒に頑張りましょう?」
えいっと小さな掛け声とともに、握っていたルクスの手をくんっと引っ張った。予想外の動きをされたルクスは、慌ててもう片方の手に力を入れたけれど、楽しそうに笑うエステルにろくな抵抗も出来ないまま、隣に倒れ込む。
二人がベッドに体重を預けても、そのふわふわ加減は優しく体を包んでくれた。隣に寝転んで、顔を見合わせるような体勢になったエステルが、ルクスの赤くなった顔を見て笑う。
「それ、そっくりそのままエステルに返すよ。
二人で、一緒に。破ったらほっぺつねるからね?」
エステルよりも年長者のように振る舞っていたって、ルクスだってこの姿になってからまだまだ日は浅い。学んでいかなければならないのは、ルクスだって同じだ。
いつか約束したことを、確かめるように告げてからルクスはエステルの頬に手を伸ばした。思っていた通りに柔らかくて、あたたかな感触が指先から伝わってくる。
「ルクスは、わたしの頬をどうにかしようとするのが好きなのかしら」
「ほっぺだけじゃなくて、エステルには触れていたいと思うよ。俺の主はこんなにすごい人なんだって言い回りたいくらい」
「それは、恥ずかしいわ……」
今度は、エステルが顔を赤くする番だった。隠そうにも、ルクスの手はまだエステルのほっぺの上にあり、上昇した熱をそのまま、伝えてしまう。お返しだとばかりにエステルはルクスの顔に手を伸ばしたが、身長差はそのまま手の長さにも現れていたようで、あと少しだけが届かない。
そんな様子を見て、ルクスの碧の瞳が嬉しそうに細められる。金の髪を揺らしながら笑えば、エステルはどんな反応を見せてくれるだろうか。湧き上がったいたずら心を止めることもせず、ルクスはほっぺから首筋、艶を取り戻した輝く銀髪へと手を動かしていく。
慣れない事だったけれど、丁寧に櫛を入れて良かった。そう思えるほどに、今のエステルの髪の通りは滑らかだ。
手触りを楽しんでいるルクスとは反対に、頬から手が伸びた段階で動きを止めたエステルはされるがままだ。呆れるようにその様子を見ていた妖精王も、ルクスの手を止めようとはしない。
「さて、今日はゆっくり休め。明日もまた、忙しくなるぞ」
エステルが小さい時から、ルクスだけはずっと傍にいたことを知っている妖精王は、止めはしなかったが、一応釘だけは刺しておこうとやんわり声をかける。
ここまで休みもなくあれこれ告げられたエステルは、確かに休息を欲していて、気持ちはともかく、体が疲れを訴えていることがよく分かったからだ。
そうでなければ、ここまでルクスに抵抗もしないはずはない。さっきまでは、少しばかり自分の手を動かす様子を見せていたのだから。
「はい、おやすみなさい。王様……」
ルクスの手つきも、寝かしつけるようなゆっくりとしたものに変わっていく。とろんとした目つきになったエステルは、枕を抱えるように体勢を変えていく。寝転がっていたルクスが場所を譲って広くなったのに、丸くなって眠るエステルはベッドの半分も使っていないだろう。
そのまま、穏やかな寝息が聞こえて来るまでそう時間はかからなかった。気の抜けた、安心した顔で眠るエステルを見て、ルクスがそっと上掛けを持って来た。
「ルクス。我は少々席を外す。エステルの守りは任せたぞ」
「もちろんです」
妖精だって眠るし、食事だってする。けれど、大抵のことは魔力でどうにか出来るし、ルクスは妖精王が呆れるくらいにエステルを大事にしている。言われずともそのつもりではあっただろうが、妖精王が窓際から動こうとした気配を感じて、視線を向ける。
「なに、こんなにきれいな月を見るのは久しくてな」
音を立てないように静かに開け放たれた窓から、夜の静寂が広がっていく。その空を彩るような金の羽を広げた妖精王は、溶けるように空に舞い上がった。
*
私室に戻った国王は、貯蔵庫から持って来たワインを開ける。少し前に手に入れたこれは、まだ熟成が進んではいなかったが、その分爽やかな酸味を感じることが出来た。若いとは思うが、あまり酔う訳にはいかないときにはちょうどいいかもしれない。
香りを楽しんでから一口、そうして喉を潤してから思うのは。
「まさか、こうも続けて妖精との縁が繋がるとは」
月明かりでも輝きを失わない銀髪、まさしくあれは母親譲りだろう。その魔力もさることながら、何より驚いたのは母と同じように妖精が側にあることを当たり前のように感じている様子。
「ひいおじい様、どうしてもっと詳細に書き遺してくれなかったのです」
長く続いている王族でさえ、知らない事が多い妖精王。唯一、仲が良かったという曾祖父の日記や口伝でも、時折話題に上がるくらいで、細かいことは書かれていない。人と同じように語り、生きているとだけ。伝説とも謳われる存在と、まさか自分が関わりになるとは思ってもいなかった。
「妖精王、オベロンか……」
「呼んだか?」
ポツリと落としたはずの言葉に返事があったことに驚いた国王は、ワインを飲みかけていた手を止めた。少しタイミングがずれていたら、このワインはそのまま床の染みになっていただろう
「何をそんなに驚いておる。お前が呼んだのではないか」
「そうでしたね。ようこそ、おいでくださいました」
「邪魔するぞ」
窓に腰掛け、羽を広げる様は絵画のように美しい。けれど、どこかそれは触れたら消えてしまいそうな儚さを持ち合わせているようにも見えた。
白銀を纏う、妖精王。こんな人物と曾祖父は友人と呼べる関係を築いていたのだ。
「なに、取って食おうとは思わんさ。それとも、お前はそう望むのか?」
「今食われてしまったら、誰があの子に手を差し出せるというのですか」
「……その顔は、憎たらしいくらいあやつに似ておるよ」
「光栄です」
それ以上は言葉の代わりにグラスを差し出した。意外な事に妖精王は酒を好まないと日記に遺っていたから、強くないワインを持って来たのだが、口に合うだろうか。
「飲めなくはないぞ。あやつが張り合って飲むようになったから控えていたまでのこと」
「ああ、曾祖父は飲めない人でしたね」
自分は飲めないのに、目の前で美味しそうに飲む姿が許せなかったのだろうか。殴り書きのようにあいつは強くないらしい、そう書かれていたのは曾祖父の強がりだったようだ。
思い出したかのように語られる、曾祖父との思い出。短い言葉でも、二人がお互いをどれだけ大事にしていたのかがよく分かった。
話を聞いているうちに、国王の胸に灯った小さな光。名前を付けるのならば、うらやましいというのだろうか。妖精と人間、ではなく対等な友人としての関係を、自分も欲している。国王として王冠を戴いている以上、決して得ることは出来ないその関係を。
月見酒を楽しんでいる様子しか見せなかったのに、妖精王は国王の変化を敏感に感じ取った。
「ランベール。友が我を呼んだ名だ」
いきなり告げられた名前に、今度こそ国王は咳込んだ。げほげほとむせる様子を見ながら、妖精王はグラスを置いて羽を震わせた。
「きれいな月夜には飲みに来よう。上等な物を用意しておくことだな」
音もなく夜空に消えた妖精王。ひと時の夢かと思ったが、そこには確かに存在したという証のグラスが残されていた。