21.
「なんだ、我では足りぬと申すのか」
「皆、驚いているだけですよ。そんな揶揄うのはおやめください」
ニマニマと口元が弧を描いている妖精王を見て、国王が先ほどよりも深く息を吐く。一呼吸分たっぷり間を置いてからたしなめるように告げられた言葉を聞いてホッとしたのは、エステルだけではないだろう。
貴族令嬢としての勉強が十分でないと自覚のあるエステルでさえ、妖精王が後見につくというのがどういう事になるのかは、さすがに理解できる。
妖精とカーラの影響があったとはいえその状況を放置していたイルハルドもまた、いろんな感情を必死に処理しているところだ。
国王だって、冷静な気持ちで返事が出来たわけではない。ただ、曾祖父の遺していた日記から読み取れる妖精王の性格と、直接言葉を交わす時間があったからこそ、多少の耐性があっただけだ。
「エステルの後見につくと言って、貴方はもう森に戻らないつもりですか」
「ん? お前だって森には戻らないだろう?」
「俺と貴方じゃ、立場が違いすぎます」
同族だからなのか、いち早く先の事を見据えたような発言をしたのはルクス。エステルを主と決めて、その傍にいるけれど、ルクスはただの妖精だ。けれど、白銀を纏って優雅に腰掛けているのはその妖精たちの王。
そうとは知らずに世話になっていたのは、妖精の聖域。そこからこの王都に戻ってくる時に何か魔法を使っていたことを思い出したエステルは、ルクスに同意するように頷いた。
「役目だけではなく、後見の申し出をいただけたこと、とてもありがたく思います。
けれど、それであの森の姿が変わってしまうような事になるのなら、わたしは受けるわけにはいきません」
聖域の管理に足りないものは、自分の身分と教養。身分ばかりは努力だけでどうにかなるものではないが、貴族令嬢としての立ち振る舞いやマナーなどはこれから勉強すればいい。
並行して魔法のこと、妖精のこと、あの聖域の管理のことなどたくさん学ばなければならない事はあるが、カーラやルディアーナに言われるまま家の管理に追われて仕事を押し付けられていたあの頃よりも、もっと自分の事を守る盾になる。それを学ぶ時間は苦痛でもなんでもない。
なにより主と定めてくれたルクスにも、後見を申し出てくれた妖精王にも、恥じる自分でいたくない。
「通うと言ったのはわたしです。教えてもらう以上、足を運ぶのは当然です」
きっぱりと言い切ったエステルに、イルハルドはわずかに目を細めた。もともとしっかりした子だと分かっていたけれど、この短い時間でさらに思うところがあったようだ。子供の成長はあっという間だというけれど、向き合おうとしなかった自分の過去が、本当に悔やまれる。その分、これからは出来なかった部分での力になれるはずだ。
伯爵家として、そして宰相補佐として得た情報を、どのように使ってどう立ち回ればいいのか。それを、少しずつでも教えていければいい。
「……何か勘違いしているようだが、後見につくとて常に側にいるものではないぞ」
「え?」
揃いも揃って真剣な顔で何かを考えているようだったのに、笑いをこらえるような妖精王の声で、きょとんとした表情に変わる。
ルクスと向き合ったエステルは、どういうことだろうかとばかりに首を傾げたが、それを向けられたルクスでも、妖精王の言葉の意味を取りかねていた。
「我が側にいると、騎士様の役目が無くなってしまうからなあ」
「まだ言いますかそれ!」
焦ったように妖精王の口を塞ごうとするルクスに、顔を真っ赤にして両手で覆ってしまったエステル。だいたい何があったのかは分かったが、これはちゃんとに後で話を聞かないといけないなと国王は緩みそうになる表情に力を入れると同時に頭に刻み込んだ。きっとこの妖精王の様子なら面白おかしく話してくれるだろう。
「この程度の距離ならば、異変があればすぐに飛んでこれる。そなたら、身をもって知っているだろうに」
「そうだった……いろいろありすぎて忘れてたけど」
そういえば、とイルハルドはここに至るまでのあれこれを思い出した。確かに、いろいろあったと言わせるほどの出来事はあったが、まだ日を跨いではいない。部分部分の衝撃が強すぎたのだろう、宰相補佐として他の人よりも記憶力に自信があるはずのイルハルドでさえ、思い出せないことがいくつかある。今更かもしれないが、と簡単なメモを取るように手が動いた。
「王を始め、魔法を嗜んでおるならば我の名は効果があるはずだ」
「恐らく、表立っての手出しはないでしょう。妖精王を怒らせれば魔法が使えなくなるのですから」
「エステル嬢の後見人として、妖精王。本当にあなたがつくのですね?」
愛し子となったクレア、彼女が魔法を使うたびにその効果は素晴らしく、妖精たちからの加護があるからだともてはやされた。もちろん、それだけではなくて彼女の日々の努力と魔力の高さに驕らない勤勉さもあったのに。
好意的に取られることが多かったとはいえ、自分とは違う力に怯えを見せたり、時には謂れのない悪意を向けられることだってあった。
そんなクレアを、妖精王が見ていなかったはずがない。イルハルドの前でさえ、ほとんど見せることのなかったという涙を、知らないはずがない。
国王の念押しのような問いかけは、エステルにも同じような感情を向けさせるのかという声なき疑問だった。
「そのくらいの見返りがあっても良かろうよ」
国王の青い瞳に籠められた感情に肩を竦めるだけで応えた妖精王は、少なくとも今はそれ以上の言葉を告げる様子はなさそうだ。
ならば、と国王も考えを切り替える。イルハルドか、エステル。どちらかといえばエステルだとは思うが、同席している時に告げられないなら、いない時に聞き出せばいいだけだ。
「私が用意できるものよりも、妖精王。貴方の見返りの方が良さそうだ」
「見返りだなんて、そんな!」
妖精王だけでなく国王まで見返りと言い出したことで、エステルが悲鳴を上げた。これから教養を身に着けなくてはと意気込んでいたところに、いきなり見返りという報酬をぶら下げられたのだから、無理はない。
「ならば、借りか?」
「借りているのはわたしの方です。このドレスも、あの聖域で過ごした時間も」
「そう思うのなら、あの森にいる同胞たちにも、この熱の心地良さを教えてやってくれ」
熱、そう言われたエステルがルクスに視線を向ける。さっき、妖精王は静かな事が寂しいと言っていた。ならば、側にいても言葉を交わすことの出来なかったルクスも、同じような気持ちを抱いていたのではないだろうか。
心配そうに眉を下げて表情を覗き込んでくるエステルの頬に、ルクスはそっと手を添えた。
「俺からも、お願いしたいな。妖精と人間、じゃなくて会話をして、お互いを大切に思いやれる存在になれるって、伝えて欲しい」
頬に手を添えられたことで、ルクスの表情から目を離すことが出来ない。真っすぐな碧の瞳は、同じ色なのに、自分よりもずっと深い感情を宿しているように見えてしまう。
そこまで考えて恥ずかしくなったエステルは、ぎゅっと目を閉じることで碧を視界から追いやった。
「根気のいる、大事な役目だ。それを任されてくれるのならこの程度は訳もない」
ぼうっと熱に浮かされたようなぼんやりした頭で妖精王の言葉を聞いたエステルは、こくこくと小さく何度か頷いた。
その様子を見ながらこの程度、にきっと外野を黙らせるような手段が含まれているだろうと思った国王だったが、それは音にすることなく飲み込んだ。
「さて、それではエステル嬢の後見をどのように広めるか、だが」
手っ取り早いのは、国王の名において宣言なりしてしまうことだ。けれど、それは広く知られると同時にエステルの危険も跳ね上がる。もう少ししてからだったらともかく、今の段階では得策ではないだろう。
エステルを王城に留めて、じわじわと話を広げようにも、本当のことよりも早く噂の方が広まってしまっては意味がない。
フォルカー伯爵家に茶会の招待状を送っている家だってあったようだから、あまり主が不在になってしまっても怪しまれてしまう。
考えつく手段のなかで、多少社交界で囁かれてしまうだろうけれど、それを覆すだけの話題になるように持っていける手が、ない訳ではないのだが。
「見せしめのようになるから、出来るだけ使いたくはなかった手ではあるが、そうも言っていられないようだ。
イルハルド、あの侍女長を家に戻す気は」
「ございません」
「……せめて最後まで聞いてからでもよいだろうに。まあいい。
多少の火の粉は振り払えるんだろうな?」
器用に片眉を上げて問いかけた国王に、イルハルドはにやりとした笑顔を見せた。それが、何よりの答えだった。そして、その国王に反応したのはイルハルドだけではなかった。
「では、この体に残る痣は証拠として」
「エステル!?」
「お父様、わたしだってあの二人に思うところはあるのです。
ルディアーナには、今はあまりないですが……」
謁見室で聞いた境遇、そして伯爵令嬢のように振る舞わせていたのがカーラだと知った今、エステルはルディアーナに対しては怒りを向けていいのか悩んでいた。
ネックレスを壊されたのは悲しかったけれど、その分妖精王とルクスが素敵な宝石で直してくれた。ドレスにつまっていた母との思い出は、今着ているドレスに移し替えていけばいい。
ルディアーナがあの時に行動していなかったら、ルクスや妖精王に会うことは出来なかったかもしれない。調子がいいと言われたらそれまでだけど、エステルは前を向こうと決めたのだ。
「ああ、娘の方か。それで、痣というのは私達が見てもいいのか?」
「構いません。妖精に影響を受けていたとしても、行動したのはカーラです。
妖精の主となり、妖精王を後見にいただく以上、悪く言わせるつもりはありません」
「立派な心掛けだ。では、失礼する」
自分が動くつもりでいたエステルは、ソファーの前で膝をついた国王に慌てて立ち上がろうとしたが、それは国王自身に止められてしまった。
足首までを隠していたドレスの裾が、そっとめくられる。聖域にいて良くなっていたとはいえ、途中で証拠として使いたいから治さないでほしいと言ったのは他ならぬエステル自身。
ルクスはそんな願いを正しく叶えてくれたようだ。あの時と変わらないままに残っている痣を見て、国王は痛ましそうに表情を歪めた。
「エステル嬢。事が全て終わったら治療をすると約束しよう。だが、今はまだこのままで耐えていてくれはしないだろうか」
「もちろんです」
丁寧に裾を直してくれた国王は、ソファーに座り直すとエステルに向かってすっと頭を下げた。自分はもう慣れてしまったが、女性の足にあれだけの痣が残っているのだから、見ていて気分のいい物ではなかっただろう。本来ならば、見苦しい物なのだからエステルの方が頭を下げなければいけないのに。
「俺の主なんだから痣は俺が治す」
「ああ、そうか騎士様か。では、治療はお任せする。手が必要ならなんなりと言ってくれ」
国王がルクスのことを騎士、と呼んでも反応を示さなかったのは、妖精王と違ってその言葉にからかうような感情がなかったからだろう。
「全ては、明日終わらせよう。今日はもう遅い、部屋を用意させるからゆっくり休むとよい」