18.
誰もがカーラに注目してその発言を聞き逃すことのないよう、自分の呼吸音さえぎりぎりまで潜めている。国王が視線を向けているにも関わらず、カーラの視線は離れたところで控えているイルハルドを捉えたまま。
娘であるルディアーナでも、その様子におかしさを感じ始めたとき、ようやくカーラは口を開いた。
「……私は、自分の行いが間違っていたとは思いません」
茶色の瞳は、エステルが邸で見ていた時と同じように何の感情も映していない。その視線の異様さに、ダリルと国王がわずかに身を固くした。
「イルハルド様。私の行動のすべては、ずっとお慕いしている貴方様にだけ」
初めてカーラの瞳に、感情が見えた。それは、恋というには重く、愛と呼ぶにはあまりに身勝手な感情。自身に向けられていないのに背中に冷たいものが滑り落ちるのを感じたエステルは、思わずルクスの手を探す。視線を向けずとも感じ取ったルクスは、優しくその手を包み込む。
「大丈夫、エステル。隣にいるから」
人間の立場なんてものは自分にはまるで関係ないけれど、ルクスがエステルを主としていることをイルハルドは知っている。つまり、自分に何か不手際があればそれはエステルの責任とされてしまうのだとルクスは学んだ。
あれを見ても何の感情も抱かないし自分が負けるとも思っていないが、仲間が力を与えているという事実だけは受け止めなければならない。これから、あの方が何をするのかも。
きっと自分が道を外れた時に起こり得る事なのだから。
「イルハルド、説明せよ」
「カーラは、私の親戚の知人でございます。主人に先立たれて行く宛てがないから、と頼み込まれたので我が邸の侍女として雇い入れました」
よく邸に遊びに来ていたダリルも、カーラを雇い入れた経緯までは聞いていなかったらしい。もしくは、国王のいる場であえてイルハルドに説明させているのかもしれないが。
親戚からの紹介で、どこかの家に使用人として雇ってもらうのは別に不思議なことではない。娘のいる未亡人、住み込みで働ける場所に伝手があるかどうかはその家次第。自分たちもそうやって受け入れた使用人がいる国王やダリルは、説明に何の疑問も持たなかった。
だからこそ、その言葉が漏れたのは無意識だった。
「なのに、どうして」
「どうしてですって?」
ダリルの呟きに反応したカーラの表情が崩れる。高いところにいるのだから、自然と視線は見上げるようになるけれど、ただ見上げるのではなく睨み付けている茶色の瞳には、明らかに憎しみがこもっていた。
「ならばどうしてあんな女の事を愛し子などと特別扱いしていたのです」
その言葉で、今まで静観する姿勢を見せていた青年が僅かに動いた。うっすらと浮かべていた笑みは潜め、刃物のような鋭い面が露わになる。
エステルの隣にいたはずなのに、衣擦れの音さえさせずに国王のいる玉座まで移動した青年に気づかないのか、カーラはさらに声を張り上げた。
「この王都で広い庭を与え、自由を与え、愛する人を与えた!」
ぶわり、とカーラの背後に黒い靄が舞い上がる。それに気づいたのは、妖精たちの他にはエステルしかいない。隣に立つルクスにあれの正体を聞こうと思ったエステルの瞬きをする間でもどんどん大きく広がり、カーラを押さえている兵士の姿が見えなくなっていく。
「お前、誰の事をあんな女と言っている?」
体に染みわたるような低い響きを持つ声が、冷たさを増していく。青年が言葉一つ発するたびに、何か重い物が体にのしかかってくるようで、息が苦しくなる。これが、青年の魔力だろうか。さっきまで感じることのなかった重みに、青年がどれだけカーラの発言で感情を揺らしているのかが分かった。
青年の魔力に押されるようにして、カーラを覆っている黒い靄が形を変えていった。抵抗しているようにじわじわと広がっているが、先ほどまでよりも動きは鈍くなっている。
妖精の姿が見えないはずなのに、ダリルは青褪め、国王とイルハルドの額にも汗が滲んでいる。国王が青年だけでなく、天井や壁にも視線を巡らせているのは、その被害の大きさを想像したのだろう。けれど、その行動を止める事はしなかった。
「ルクス、あれって……」
「あの女にいる妖精。だいぶ深いところまで入り込んでたみたいだな」
「妖精の愛し子などと虚言を吐き、気味の悪いピンク色の瞳を見せびらかしていた女以外に誰がいるというのです!」
エステルの目に映るのは、カーラから溢れ出す黒い靄。全身覆われてしまって、もうカーラの姿は見えない。獣のような形を取り、紅い輝きはつり上がった瞳のようだ。あの光が、カーラにいるという妖精なのだろうか。
エステルが感じていた温かくて優しい光とは、まるで違う。
「私ならもっとあの方に触れていられる! 女として役に立てるのに!」
カーラの叫びなど聞こえていないかのように、青年が静かに一歩前に出る。わずかに怯えるような様子を見せた靄は、もう後がないと気づいたのかさらに大きな膨らみとなって青年へと襲い掛かる。
「エステル、これやばい……!」
妖精が見えなくても確認できるくらいに大きくなった黒い靄。いきなり見えるようになった靄に国王たちが驚いていたが、ルクスが抱え込んだのはエステルだけ。
青年の魔力が、今まで感じたことのないくらい高まっているのだ。そんななかで何人もの人間を守れるほどには、ルクスの力は強くない。無関係の人間を傷つけるくらいまでは、激昂していないはずだ、たぶん。
「もうよい」
パンッと何かが弾けた音が謁見室に響いた。静寂のなか、青年の声だけが耳に届く。いつの間にかカーラのすぐ目の前に移動していた青年の手は、何かを掴んでいるように握られていた。その手から逃れようともがいている妖精の姿を確認したのは、ルクスだけだった。
「どうやら我は温かったようだなあ。これほどまでに自らを弁えぬ妖精がいたとは。
去ね」
握られていた手が、ふわりと開かれる。そこから小さな光がぽつぽつと上がっていき、最後には周りに溶けるようにして消えていった。
ひゅっと喉を鳴らしてその様子を見届けたルクスが、今度はエステルの手を強く握る。青年の手から舞い上がった光を見ていたエステルは、その行動の意味を悟った。
あれほどまでに大きくなった黒い靄が消えてからの青年の言葉。そして、ルクスの反応。あの方は、まさしく妖精を束ねる者なのだ、と分かってしまった。
「さあ、お前が頼りにしていた者の力はもうないぞ?」
夜の泉のような冷たさを感じさせる表情が、一呼吸の間にさっきまで見せていたうっすらと笑みを乗せたものに変わる。その早さは、カーラに怖れを抱かせるのには十分だった。
エステルとて、聖域での青年の様子を見てなかったら体が凍り付いていただろう。それほどまでに、仕草も表情も、違い過ぎた。
「私は、私はただ貴方を、貴方の隣に……」
壊れた人形のようにそれだけをただ繰り返すカーラに、青年は興味を失くしたように背を向けた。青年と入れ替わるようにカーラの前に立ったのは、イルハルド。
落とした視線の先に見えた今までとは違う靴の先に、のろのろと顔を上げたカーラの表情がみるみるうちに明るくなる。
自分の事を助けに来てくれたのだ、間違いない。だってずっと伯爵家を守って来たのは、自分だ。愛しくなどと言って惑わす存在もいない、妖精を従えたからと飛び出した邸に戻って来た子供でもない。伯爵家と共にあることを選ばれたのは、自分。その瞬間、カーラの胸を満たしたのは歓喜。
けれど、視線の先にいるイルハルドは、望んだ表情ではなかった。
「そんな、なんで……!」
「クレアはその魔力の高さを活かして、苦しむ人達を助けていたよ。私は、そんなクレアの心根の強さに惹かれたんだ。愛し子だったからじゃない」
母が、救護院で施しをしていたとは聞いていた。魔力が高く、治癒を使えるのだから、使わないのはもったいないと言っていたと。病に倒れた母がさっさと離れにこもったのは、きっとその時の知識があったからだろう。エステルも、母の看病をする際にいろいろと教えてもらった。
寝ている時間が増えてから、たくさん話をしたけれど、父と母の馴れ初めを聞くのは初めてだ。母は、恥ずかしがって教えてくれなかったから。
「例え君と先に出会っていたとしても、クレアが妖精から愛されていなくとも。私が君を選ぶことは、ない」
カーラが雇われてから、イルハルドが間接的に向けられる感情を断っていたことはあったのだろう。それを受け入れられなかったのか、気づけなかったのか。届かない想いがいつしか歪み、それを叶えるために妖精を利用したのかそれとも、妖精の方がカーラの歪みを利用したのか。
「影響を与えていた妖精はもういないのだろう? 連れていけ」
目に見える範囲で城が壊れるような被害がなかったことに内心安堵した国王が、体力を使い果たしたように息を荒げている兵士に指示を出す。イルハルドの言葉にただ静かに涙を流すカーラは、引きずるようにして連れていかれた。
呆然と座り込んでいたルディアーナは母の態度に怯えを見せていたが、兵士に促されると意外にもすんなりと立ち上がってみせた。一度だけ振り返るようにエステルを見たルディアーナは、何も言わずにそのまま謁見室を出て行った。
そうして、謁見室に残ったのは、最初からいたエステルたちだけになる。青年の様子を伺うようにして誰もが動けない中で、緊張を解いたのは国王だった。
「いやあ、なかなか強烈だったな。よくあれを侍女として雇い入れたものだ」
「妻の目からしても、仕事に関しては上等でした」
その点に関しては、エステルも同意をした。雇った当初は侍女としてだったし、母も仕事のし過ぎだと諫めるくらいに働いてくれていたのだから。おかしくなったのは、母が離れにこもるようになってから。もしかしたら、その頃から妖精の影響を受けていたのかもしれない。
もう、それを確認できる手段はないけれど。
「それにしても、そこの妖精殿はよくぞエステル嬢を守ってくれた」
「主を守るのは、当然ですから」
「ははは! そうだったな」
当たり前のことを褒められたのがむず痒いのか、ルクスはほんの少しだけいつもより悪態をついていたけれど、それも周りの緊張を解すのに一役買ったようだ。エステルとしては、ルクスの態度が国王に不敬だと咎められないかハラハラしていたのに、どうやらそんな事はないらしい。
「我らとてお前たちのような感情はある。
クレアから向けた以上の感情を返されなければ、愛しく思う事だってなかっただろう」
母がどのようにして妖精の愛し子と呼ばれるようになったのか。エステルも、イルハルドでさえ詳しいことは聞いていない。けれど、ルクスや青年と一緒にいればいつか教えてくれるような気がしている。
母とは違うだろうけれど、エステルはエステルとして妖精たちと関係を築いていきたいと願っているのだから。
「エステル。俺はずっと傍にいたけど、エステルだって俺の事見ててくれただろ?」
「そんなことだけで?」
「そんな、じゃない。大切なんだよ。自分を見てくれるって事は、それだけ大切なんだ」
カーラの態度が変わった時には、どうしてなのか分からなかった。それが続くようになって、いつしか当たり前のようになった時。義姉と慕ってくれたルディアーナが癇癪を起こし、エステルの物を何でも欲しがったから物を持つことを諦めた時。エステルが一人泣いていた時に、ずっと傍にいてくれた光が、ルクス。
ただ小さい時に追いかけていた光との区別もつかず、けれど自分の傍にある温もりを手放したくなくて。そんな理由で見ていたのに、大切だと言い切ってくれる。その言葉は、じんわりと染みわたり、これからもきっと支えとなってくれるだろう。