13.
探し求めていた娘の無事な姿を見て、思わず駆け寄ろうとしたイルハルドの足を止めたのは、その隣に控える金髪の青年からの険しい視線。わずかばかりでも冷静さを保てたのは、この場の状況に思い至ったから。
国の頂点であるはずの国王が玉座に座らず、見たこともない青年にその場を譲っている。国王より年若い青年は、そんな周りの態度を見ても余裕そうな笑みを崩さずにただ面白がるような視線を巡らせるだけ。
イルハルドはもちろん、宰相であるダリルも未だこのような事態に対応したことがないので、どうしたらいいのかと次の行動をとれずにいた。
そして、それはエステルも同じだった。自分の記憶よりも痩せているし疲れが見えるけれども、その姿を見間違えるはずはない。久しぶりに会った父親が自分の名前を呼ぶ声の必死さに、存在を忘れられてはいなかったのだと安心したのに。
「エステル」
ルクスの声は、聖域にいた時と同じように柔らかい。確かめるようにその顔を覗き込んだエステルには優しい微笑みを見せているのに、謁見室に入ってすぐの場所で縫い留められたように動けなくなっているイルハルドに向ける視線は、冬の氷のように冷たいものだ。
「言っただろう。直接見えたらこやつが怒るのも無理はないと」
「……ええ、そうみたいですね」
説明は、されていた。ルクスはエステルと共にずっとあった唯一の妖精。だからこそ、エステルがあの邸でどのような扱いを受けていたのか、全てを知っている。
それが、イルハルドの知らぬところで行われていたのだとしても、自分に名を与えてくれた主の事を蔑ろにしていたのは、間違いないのだから。青年から話を聞いていたエステルが読み違えたのは、こんなにも怒りを露わにするルクスの態度と、妖精がどれだけ主の事を大切に思っているか。
その気持ちは嬉しいけれど、現状においては話が進まなさそうだと感じたエステルは、場を収めることが出来そうな人物に助けを求める。それは、一緒に話を聞いて事情を理解したうえで、身分としては最上位にある国王陛下しかいないのだけど。
ただの伯爵令嬢である自分が国王陛下と言葉を交わし、ましてやこのようなことを頼むようになるなんて想像すらしていなかったエステルは、困ったように苦笑いを浮かべるしかない。
その表情にこめられた意味を正しく受け取り、優しく細められた青い瞳は、任せなさいとばかりに強く頷いている。
「宰相、そしてフォルカー伯爵もこちらに。まずはかの方をご紹介しなくては」
「紹介なぞされてもなあ」
「あなたにそのつもりがなくとも、あの者にはございます。どうか、一度だけ機会を与えてはいただけないでしょうか」
興味なさそうに呟いている青年に、同意するように頷いているルクス。事前に言葉を交わしていなかったら、この青年たちの言動にどうしていいのか分からなくなっていただろう。
懇願することもなく機会を得た自分は幸運だったのだと、国王はわずかに安堵した。それでも、何を気にすることもなく悠然と肘置きに腰掛け、長い脚を組んでいる青年には気付かれていたようだが。
青年が僅かに頷く仕草を見せたことに深く頭を下げ、国王はゆっくりと息を吸った。これから告げることが、あの二人に衝撃を与えると分かっているからか、開いた口は微かに震えていた。
「このお方は、妖精の森から参られた。あの森の、そして妖精たちの守護者だ」
人払いをしてあるとはいえ、国王陛下がいるのだから護衛は必ず側にいる。その兵たちも少なからず動揺を見せたが、イルハルドほど衝撃を現した者はいなかった。
国王の言葉を聞いて茫然とその姿を視界に収めたダリルの隣で、膝から崩れ落ちたイルハルドが立てた鈍い音は、玉座まで続く絨毯に吸い取られても謁見室に響いた。
整えられた絨毯の毛を掴むようにぎゅっと握りしめられた拳は震え、俯いた拍子で執務の邪魔にならないように後ろに撫でつけていた青い髪が揺れる。
けれど、そうしていた時間はわずかで、イルハルドは跪くような姿勢を取ると、いろんな感情がごちゃ混ぜになった碧の瞳を青年に向けた。
「ああ、クレアの伴侶はお前であったか」
妖精の森、国王がそう告げたのは王城に勤めている者ならば、誰もが一度は耳にしたことがある場所だ。
そのなかでも、イルハルドには特に馴染みがある呼び名だった。妻のクレアが妖精の愛し子だったからこそ、国王に直接願い出てまで他よりも広く緑のある土地を頂いたのだから。
その森の守護者、青年に対する国王陛下やエステルの態度。イルハルドが深く考えるまでもなく、青年の正体にはすぐに想像がついた。
「では、やはり貴方様が……!」
「左様。我らはクレアの事を慈しみ、そして愛した」
青年がクレア、と呼ぶ声だけでもどれだけ大切にしていたのかがわかる。それくらいその声には感情がこもっていた。
宰相補佐として書類と向き合う時間の方が長いイルハルドでも分かったのだから、人の顔色を読む機会の多い宰相や、国王だったらより深く感じ取れただろう。もちろん、この二人も青年が妖精の森の守護者であると聞いた時点で、その正体を察している。
「クレアが旅立つまで、お守りいただきましたこと。心から感謝申し上げます」
「今のお前からその感謝を受け取るつもりはない。……分からぬとは言わせぬぞ」
「それ、は……」
「我よりもその怒りを鎮めなければならぬ者がおるからなあ」
イルハルドが跪いたまま、深く頭を下げる。ただし、その頭上にかかった言葉は優しいものではなかった。クレア、と愛し子を呼んだ同じ口から発せられたとは思えないくらいに違う声。ルクスのそれよりももっと冷たい声に、イルハルドは防寒具もなく極寒に放置されたような錯覚に陥った。
返事をしなくてはとカチカチと震える口に力を込めたが、青年の言わんとすることが理解できたイルハルドは、それ以上の言葉を返すことが出来ない。
どういった経緯でエステルが青年やその関係者だと思われる金髪の青年と共にいるのかは分からないが、自分に怒りを向けているのは金髪の青年の方だろう。それはイルハルドだけではなくその場にいる全員が分かった。
面白そうにずっと薄い笑みを浮かべている青年とは対照的に、金髪の青年はエステルを守るようにずっと前に立って、イルハルドの視線がエステルに届かないように遮っているのだから。
「エステル、」
「お父様、その」
それでも、あの手紙を見て邸の様子を見てからずっと探していた娘の姿が目の前にあるのだ。娘も自分の事をまだ父と呼んでくれている。ならば、ここで少し言葉を交わすことは許されるのではないだろうか。
頭を上げたイルハルドは、自分のそんな考えは甘いのだと突きつけられた。
「素直にエステルと話せると思ってるのか? あれだけ放置していたくせに」
エステルを守るように立つルクスの言葉は最もだ。書類を収納するはずの棚をひとつまるまる埋めるほどに書かれた手紙、封を開けたのは一体どれだけあっただろうか。
邸に帰ったのは。言葉を交わしたのは。顔を見たのは。どれもどれくらいだっただろうか、と記憶を掘り起こさなければならないほどに、前。
「それについては、弁明のしようがない。私の事を信用できないのも当然だ。だが、これだけは言わせてくれ。
エステル、よく戻ってきてくれた」
イルハルドが真っすぐに顔を上げて告げた、その言葉だけはルクスは遮ることなくエステルに届けた。
妖精は言葉遊びをしたり、からかうような事を言うけれど、嘘を告げることはない。イルハルドの言葉が本心から出たものだと分かったから、エステルに届けることを許しただけだ。
自分の主がどれだけ心を痛めていたかを理解しているからこそ、父親であるはずのイルハルドの今までの行動はまだ、許していない。
それは、エステルの隣から動こうとしないルクスの立ち位置が何よりの証だ。
「さて、そやつは我と同じでな。エステルのことを主と仰いでおる。
お前がクレアの伴侶であり、エステルの父であるというのなら。そやつを納得させてみせよ」
父親とルクスに挟まれてどうしていいのか分からなくなっているエステルと、場を取り持ったが自分が口を出せる立場ではないと傍観の姿勢を崩さない国王。
ルクスは当然、エステルを守るという立ち位置を変えないだろう。このまま眺めていても変化には乏しいだろうと判断した青年が、どうしたらいいのかを指示した後にふらりと椅子から立ち上がった。
「我らは席を外す。城の酒を飲み干されたくなかったら、早めに怒りを解くんだな」
つい、と視線だけを国王に向けた青年は、その場に留まろうとしたダリルにも自分についてくるように合図を出してから謁見室を出て行った。宰相として知識のあるダリルはもちろん、青年の正体を悟っているのでその合図に従った。
国王の指示で少しでも気楽に話せるようにソファーが運び込まれ、扉が閉められる。
エステルが座った隣には当然のようにルクスが陣取り、イルハルドは向かい合うような形で腰掛けることになった。
「あの方はああ仰っていたが、俺はあんたのこと許すつもりないから」
重苦しい空気のなかで父と娘の再会を祝うよりも早く口火を切ったのは、ルクスの不穏な言葉だった。