12.
「イルハルド、食事は摂れているか?」
執務室に入室して開口一番、告げられた言葉にイルハルドはぎゅっと口を引き結んだ。返事の代わりとでもいうようにバサリと大げさな音を立てて書類をまとめ、目の前の人物に手渡す。その間も、ずっと見つめてくる視線とは目を合わせないようにしていたが、とうとう堪えられなくなったのか、引き結んでいた口からか細い声が漏れる。
「……閣下のご心配には及びません」
「宰相ではなく、君の友人であるダリルとして聞いている」
しかし、相手はそれだけでは到底納得してくれなかったようだ。宰相としてだけではなく、友人としての立場まで持ってこられてしまったら、自分の話術では到底及ばないと分かっているイルハルドには断る術がない。
「エステルの経緯は聞いている。私も妻も、家の者に探させてはいるが……」
「ダリル。ヴィオラの手まで使ってくれているのか」
女性の事は女性に。それはもちろん、イルハルドだって理解している。けれど、妻を亡くしている身では、どうしても社交界への伝手は少なくなる。そこをカバーするような手を使ってくれているダリルに、自然と頭が下がったが、それは深くなる前に止められた。
「謝罪はなしだ。少しでも申し訳ないと思う気持ちがあるのなら、その血色の悪い顔をどうにかしろ」
「全く……お前には敵わないな」
「どれだけの付き合いがあると思っているんだ」
書類をパラパラ捲っていた手が止まる。ついてこいとばかりに促された視線に従うように席を立ち、執務室を出た。ダリルの手にはいくつかの付箋がつけられた書類があるから、不備のある箇所の確認もついでにこなすつもりなのだろう。
イルハルドとしても、書類の不備は自分の業務にも関わってくるため、確認に向かうのは何の問題もない。
問題があるとするならば、自分のような補佐でもなく、ウィンのような下働きの見習いを使うのでもなく、宰相自らが率先して動き回っていくことだけだ。それも、言ったところでまた丸め込まれるのは目に見えているけれど。
そんな経緯もあり、イルハルドは風除けのように前を歩くダリルの背中をただただ、追い続けた。
用件のある部署は、食堂よりも手前にある。慣れたように颯爽と歩くダリルに、すれ違う人物は挨拶だけではなく、気軽な世間話も交わして行く。それは、書類を届けに行った部署でも同じだった。時にはその場で意見の応酬すらあった。
執務室に籠りっきりのイルハルドは、滅多に見ることのないその光景に目を丸くしていたが、それこそがダリルの目的だと気づいた後からは、真剣にそのやり取りを見るようになった。クレアを亡くしてからの自分が、どれだけ視野を狭くしていたのかと思い知らされたからだ。
イルハルドの変化を見たダリルは、半分ほど残っていた書類を近くの見習いに託し、食堂へと歩き出す。
「それで、状況は」
ここはすれ違う人も多い。ダリルが名前を出さずに用件を切り出してくれたのは、エステルが邸を飛び出してから行方知れずになっていることが、公にはなっていないからだ。
伯爵家でありながら、宰相と学生時代からの友人で、補佐として王城で働いているイルハルドは、妻を亡くしているからか後妻を希望されることがそれなりに多い。侍女長であったカーラも、そうだったのだから。
そんな状況で一人娘のエステルが行方知れずになったことが知れ渡ったら、エステルを見つけ出し、その褒美として自分を後妻として娶れと言い出されかねないからだ。
この件を知っているのは、上層部、それから手紙を読んだウィンだけだ。
「侍女長とその娘は王城で事情を聞いている。どうやら、伯爵夫人だと詐称していたようなのでな。娘は知らないと言い張っているが、言動のほとんどを厨房の者が証言してくれたよ」
「ハンスはどうしていたんだ? あれは優秀な家令だろうに」
「私の代わりに領地に行かせていたんだ」
ダリルから見ても優秀な家令であるハンスがいたならば、このような事態など起こらなかったはずだ。それは、たらればの話でしかないけれど。
領地、と聞いて何かを考えるように顎のひげを二、三度撫でたダリルは、何かを思い出したかのような小さい声を上げた。
「ああ、向こうは水害が起きていたんだったな」
確か、フォルカー伯爵家で預かっている領地は馬を飛ばせば半日ほどの距離だ。しばらく前にその地を流れる川が氾濫し、辺り一帯が浸水したという報告が上がっていた。幸いというべきか、収穫期を過ぎていたからか農作物に影響はほとんどなかったが、道具や蓄えが流されてしまったので減税の嘆願が届いていたはずだ。
陛下からの指示を受けて、イルハルドに状況を聞きながら書類を調えたのは、ダリルだった。
「さすがだな、覚えていたか。
ハンスは、自分が家を空けていたからだと。私が領地に行くように命を出したのだから、責任はないと言っているんだが」
「分かった。フォルカー家にも後で栄養のある物を届けさせよう」
父であるイルハルドが顔色を悪くしているのだ、責任を感じているハンスが同じような事になっているのは簡単に想像がついた。
他の使用人はどの程度だったか、とダリルが目算を始めた時に聞こえてきたのは、イルハルドの絞り出したような声。
「だが、ダリル。見つからないんだ」
顔こそしっかり前を向いて歩いているものの、その声はいつもの様子とまるで違っていた。学生からの付き合いがあるダリルでさえ、こんなに弱々しい声を出すイルハルドを見るのは久しぶりだ。
これ以上は、人目が気になってしまってしっかり話すことが出来ない。そう判断したダリルは、すぐ近くにあった部屋に会議中の札をかけてから入る。この辺りの部屋ならば、だれが使うにも事前の申請は必要ない。例え必要だったとしても、宰相という立場があるのならば事後報告でも問題はないだろう。
「侍女長と娘の話から、エステルが邸を飛び出したことは分かった。手紙を受け取った郵便屋にも、それとなくエステルの様子を伺ったが特に変わった様子はなかったそうだ。タイミングとしては、エステルが邸を出たのは手紙を出した後だろう。
その日の夜に、所々で灰色の髪の少女が人目を避けるように走っていたという情報は掴んでいるからな」
そうして入った部屋で、まずイルハルドを座らせた。向かい合うようにダリルが座ったのを合図にするかのように、俯いたイルハルドから事の次第が語られる。
周りに悟られないようにイルハルドの職務を減らし、エステル捜索の時間に当てるようにさせてはいたが、今まで机にかじりついていた人間の時間を減らすのは、なかなかに難しかった。それでも作りだせた時間は有効に活用できているようで、短いながらでも情報を掴んでいる様子に、ダリルは安堵した。
「灰色? エステルの髪はクレア譲りではなかったか」
「満足に手入れも出来ないほどに、エステルが追い詰められていたそうだ。厨房の、ゼストが自分では何の力にもなれなかったと」
小さい頃、それこそまだクレアが元気でいた頃にはよく邸に招待されていたダリルは、エステルとも何度も顔を合わせている。
目の前で項垂れて小さくなっているイルハルドから瞳の碧を、妻のクレアからは輝く銀髪を継いだ少女は、それは楽しそうに庭を駆け回っていたものだ。
「そこまで情報があるのだったら、見つけることなど容易いだろう?」
「俺もそう思ったさ! なのに見つけられないんだ!」
それは、イルハルドが初めに思ったことだった。目撃情報を辿っていくことなど造作もないことだった。足取りはすぐに分かったのだから、居場所だって見つけられるだろう。
そう踏んでいたのに、どれだけ目撃情報を繋げて地図を辿って行っても、エステルがいる場所が分からない。何度地図を辿ってみても、何かに惑わされているかのように情報のあった箇所をぐるぐると巡るだけ。
「まさか、街の外に出てしまったのか」
「……可能性は、ある。だが、手紙が届く前の記録を見ても、夜に女性が一人で街の外になど出ていないんだ」
「衛兵の目をかいくぐることなど出来ない、か」
ダリルの言葉に、イルハルドは頷くだけだった。
国王がいるという場所柄、街をぐるりと囲むように壁があり、出入りをする人物は例外なく衛兵によるチェックを受ける。その記録は定期的に処分をしているが、ついこの間の分はまだ保管されている。
それも全て検めさせてもらったが、直近の夜に灰色の髪を持つ女性が一人で街を出たという記録はなく、それどころかこのひと月ほどを見ても、そのような記録は残されていなかった。
「そんな事が出来たら、陛下たちにお伝えせねばならないからな」
「すまない、ダリル。お前は心配してくれているだけなのに」
「気にするな。さっきも言ったがその顔色をどうにかしろ」
重苦しい息を吐きだした後に、イルハルドは先ほど自分が声を荒げてしまったことをダリルに詫びる。
ろくに情報も持っていないダリルでは、考えうることを単純に口にしただけだっただろう。それを受け止めるだけの余裕が、イルハルドにないだけだ。
とにかく、現状の確認は出来たのだからイルハルドに食事を摂らせることが優先だとばかりにダリルが立ち上がった。
イルハルドも、ここでダリルと話していたところで状況が好転するわけでもないのだから、今後のために食事を摂ろうと頭を切り替えて、部屋を出る。
そんな二人の耳に届いたのは、慌てたようにドタドタッと駆け回っている足音。
「宰相閣下! こちらにいらっしゃいましたか!」
ダリルが部屋を出たタイミングで叫びに近い声を上げたのは、最近よく宰相の執務室に顔を出すようになった見習いの一人。その様子から何かあったのかとダリルが近寄ろうとするよりも早く、用件が告げられた。
「急ぎ、謁見室へお越しください! 陛下がお呼びでございます!」
「陛下が? 謁見室になどと」
「宰相補佐様も、どうかご一緒にとのことですので、お急ぎくださいませ!」
「私も、だと?」
陛下からの呼び出しがあることは珍しくはないが、指定された場所は珍しい。執務に関係するような事であれば、陛下の使っている執務室を指定されるはずだ。謁見室での面会など今日は予定もない。まして、補佐が一緒に向かうことなど、これまでにはなかったことだ。
「陛下の意図は分からないが、とにかく謁見室へ向かおう。貴殿は先に戻って陛下にお伝えいただけるか」
「畏まりました! 失礼いたします!」
見習いは急いで踵を返したが、今度は足音を立てることなく去って行った。ダリルが誰に言付けることなくイルハルドと共に部屋に籠ってしまったために、居場所が分からず探し回っていたのだろう。
少しだけ見習いに申し訳なく思ったが、ダリルにはまずやらねばならないことが出来てしまったようだ。
「さて、悪友の顔に食事を詰め込む前に一仕事だな」
「お前、詰め込む気だったのか」
「当たり前だ。さあ、行くぞ」
しれっと悪びれる様子も見せずに、一瞬で宰相としての顔になったダリルに、イルハルドも気持ちを切り替えた。陛下からの呼び出しなど、滅多にないことだ。
なにか、悪いことの前触れでないといいが。そう願いながらイルハルドもダリルと共に謁見室へと向かった。
「宰相ならびに宰相補佐、到着いたしました」
謁見室の扉を守る兵に、身分と名を告げれば、待ち構えていたかのように扉の向こうから入室の許可が下りた。
そこまで待たせるほどに、あの見習いを駆け回らせてしまったのだろうかと頭を下げたダリルが小さく息を吐いた。それは、イルハルドも同じだ。
「失礼いたします。陛下、本日はどのようなご用件で……」
さく、と柔らかく足元を彩る絨毯が音を立てる。陛下はすでに謁見室に入られていたが、どうにも様子がおかしい。いつもなら腰掛けるはずの玉座は空のまま、その肘置きに全身を白銀でまとめ上げた人物が腰掛けていた。
そしてその陛下の一歩後ろに控えるように立っているのは、金髪ながら素朴な色合いの服に身を包んだ青年、それから美しい白銀のドレスを引き立たせるような銀髪を持つ、少女は。
「お父様!」
「エステル!?」
白銀のドレスを着こなしたエステルが、金髪の青年に守られるようにしてそこに佇んでいた。