10.
「家に帰るって、本気ですか」
「我はこの手の冗談を好まぬ」
「それは知っていますが、この姿では……」
家に帰ると告げた青年がさくさくと歩き始め、慌ててその背中を追いかけたエステルだったが、その眼前では言葉の応酬が繰り広げられていた。
ルクスは優しく手を引いてくれているし、歩幅だって合わせてくれている。周りを漂う光が妖精の姿となって見えるようになったので、エステルはあちこちを楽しそうに見ていた。ところが、青年とルクスがやり取りしている言葉の中から、自分に関係していそうなところが聞こえてきたので、ハッと足を止めた。
手を繋いでいるルクスが、くんっとエステルの動きに合わせたように足を留め、それにつられるように青年も不思議そうに歩みを止めた。
「わたし、この服しか持ち合わせがないわ。繕うくらいなら出来るけれど……」
ルクスが言っていたのも、エステルの今の姿を見たからだ。もともと着ていたのはワンピースだったが、あまり手入れもせずに着続けていたからか、ところどころにほつれがあった。街を走り回っていた時に跳ねた泥は乾いて、裾に水玉模様を作ってしまっている。
この聖域に辿り着いてからついた汚れはなさそうだが、一緒にいる二人の服装が整っているだけに、エステルは自分の姿を見て、そっとため息を吐いた。
繕うと言ったって針や糸の持ち合わせはない。見栄えをよくするためには、泉で丸洗いするくらいしか方法はないだろう。そう思っていたエステルに、得意気な声が届いた。
「エステル、ここがどこだか忘れたのか?」
「妖精の、聖域」
正解とばかりにそっと頭を撫でたルクスの顔は、声と同じような笑みを浮かべていた。妖精たちはたくさんいるが、青年やルクスくらいの背丈を持つ者はいない。どれだけ大きくとも、エステルの片手に乗ってしまうくらいでしかないのだ。ルクスだって、名前を呼ぶまでは同じくらいの大きさでしかなかったのだから、もしかして違いは名前があるかどうか、というところなのではないだろうか。
そうだとしたら、エステルに最初に姿を見せてくれた青年は、名前を持っているという事になる。エステルは教えてもらっていないけれど、ルクスだったら知っているのかもしれない。
「ほら、今は別の事考えない」
「あ、ごめんなさい。よく分かったわね」
「まあ、ずっと見てたから。エステルのこと」
ルクスの真っ直ぐな視線を受けたエステルがちょっと恥ずかしそうに視線を逸らした先は、ワンピースの裾。青年のローブは光を反射するかのように輝いているし、ルクスのシャツだって皺ひとつ見当たらない。対して自分が着ているのは、裾がほつれて色だって褪せ始めた簡素なワンピース。夜で灯りも少なかったとはいえ、よくこの姿で街を走り回れたものだと苦笑いしか出てこない。
「だから俺たちは、俺はエステルの望む事なら何でも叶えたい。せっかく傍にいるんだから」
「ありがとう、ルクス。すごく嬉しい」
俺たち、と言いながらも語気を強めて自分の事を強調したルクスは、エステルの少し照れたような顔を見て表情を緩ませた。
望まれたからエステルと呼んではいるけれど、実際には最初に告げたように自分の主、という認識の方が強い。自分たち妖精が、守らなければならない存在。今のルクスにとってエステルはそういう存在であり、小さい頃から見守ってきたからこそ、庇護欲は強まっている。
「でも、わたしが悪いことをしたり、母の教えを守れずに人を憎んでしまうような事があったら叱って欲しいの」
だからこそ、エステルのその言葉は意味が分からなかった。エステルの母は妖精たちから愛された人間だ。愛し子は妖精王が認めた存在。そこに一切の例外はなく、どんな妖精だって愛し子には無条件に惹きつけられる。ルクスだって、最初はそうだったのだから。
娘であるエステルに、何かにつけて教えを説いていたのはずっと見ていたし、聞いていた。けれど、それはルクスには関係のない話だった。自分は妖精で、人間の善悪の判断など関係なく、ただ主の望みを叶えればいい。
「お前は不思議な事を言うのだな」
そんなルクスの気持ちを代弁したかのような青年も、微妙な表情をしていた。ただそれは意味が分からないという感じではなく、どこか懐かしい物を見つけた時のような表情だった。
エステルは、そんな青年の様子に気づかなかったようで、握ったままのルクスの手にぎゅっと力を入れた。
「ずっと傍にいてくれたのは嬉しいわ。だけど、それでルクスまで一緒になってしまったら、わたしはきっと傲慢で、痛みに無頓着な人になってしまう」
それは、きっとカーラやルディアーナのような。空いている手で存在を確かめるように触ったのは、ポケットにある千切れたチェーン。人の物を、ましてや形見だと告げても謝りもせず、責任を押し付けてくるような人にはなりたくない。服の上から微かな感覚が触れただけでも、まだエステルの胸には悲しい気持ちがこみ上げてくる。
そんなエステルの様子を静かに見つめていたルクスは、自身の熱を移すようにもう片方の手も取って、ぎゅっと包み込んだ。
「まあ、エステルがそんなになるなんて想像でも出来ないけど。約束するよ。その時は、引っぱたいてでも止めるって」
「お願いね。ルクスに引っぱたかれるのは痛そうだから、そうならないように頑張るわ」
「俺も叩きたくなんてないから。そうしてくれると嬉しい」
見つめ合って二人で小さく笑いあう。その頃には、エステルの冷えた指の震えも止まっていた。
「さて、身なりを整えるとのことだったな」
エステルとルクスの様子を見守っていた青年が、くすくすと笑いを隠そうともせずに声をかけた。そういえば、始まりはここを出て家に帰るという話からだった、と何の解決もしていない自分の現状に慌てたエステルは、周りの様子に呆然とした声を上げた。
「すごい……!」
「繕いに、得手がある者たちだ。人間の服だって思いのままだぞ?」
はしゃいだ様子で頬を赤らめるエステルの気持ちを伝えるように、握ったままのルクスの手がどんどん熱を帯びていく。裁縫や、細かいことがあまり得意ではないルクスは、自分が力になれない事に少しだけ悔しそうな表情を見せたものの、これだけ嬉しそうにしているエステルの邪魔にはなりたくない、と控えめな笑みを浮かべるだけに留まった。
「それなら、これもお願いできないかしら?」
「これは、」
ポケットから取り出してみせたのは、千切れたチェーン。服とは違うし針と糸で直るような物でもないけれど、魔法が使える妖精ならもしかして、という思いもあって取り出した。
それを見て顔色を変えたのは周りにいる繕い物が得意な妖精たちではなくて、青年の方だった。
「母の形見なの。飾りの宝石は取られてしまったけれど……」
そっと差し出したエステルの手から、まるでガラス細工のように繊細なものを持ち上げるような手つきでそっとチェーンを取った青年は、泣きそうに表情を歪めている。
けれどそれは一瞬で、エステルが瞬きをして再び青年の顔を見た時には、そんな様子はどこにも見えなくなっていた。
細心の注意を払ってチェーンを見ていた青年が、ふむ、とひとつ頷くと心配そうに寄り添っていた妖精の一人に預けてしまう。
「なるほど、クレアの魔力がまだ残っているな。お前が迷いなくここに辿り着けた一因も、これがあったからか」
「俺がついてるんだから、迷う事はさせませんでしたよ」
「ああ、そうだったな。騎士様」
ずっと母が身に着けていて、療養中にエステルに渡してくれたネックレス。きらきらと周りの色に合わせるように輝きを変えていた宝石はもう手元にないけれど、チェーンだけでも残ってくれたから、エステルはこの聖域に辿り着くことが出来たようだ。
もちろん、ずっと傍にいたルクスの力もあってこそだとは思うけれど。そんなルクスをわざとらしく騎士様と呼ぶ青年は、間違いなくからかって遊んでいるだろう。
自分がそう呼んでしまったからという申し訳ない気持ちと、母から継いだものが残っていた嬉しさ。それから、ほんの少しだけ見せた青年の泣きそうな表情は胸を締め付けるようなものだった。
いろんな感情が一気にやって来たエステルは、その後の青年の動きに反応が遅れてしまった。気づいた時には、青年は周囲の景色に溶けるようにその姿を消していた。
「服の替えはないのよ。着たままでも大丈夫かしら?」
「大丈夫だって。エステル、座って」
ルクスの手に案内されるまま、近くの切り株に腰を下ろしたエステルは、ワンピースの裾をそっと広げようとして、手を止めた。
「あのね、ちょっと傷があって。見苦しいかなあ、って……」
ルクスの視線に、エステルは口をもごもごさせる。普段はそうでもないのに、気まずかったり話を逸らそうとすると口調が少し幼くなるのは、気を許した証拠だろうか。そうだったら嬉しいなと思いながらも、ルクスはエステルが押さえている裾に少しだけ風を向けた。
「あ、ちょっとルクス……!」
「エステル、隠そうとしたのはこれだな?」
「ずっと一緒だったのなら今更隠すようなものじゃないけれど、見たくもないでしょう?」
ふわり、と風を受けひらめいた裾から覗くエステルの足は、白くてほっそりとしている。それだけなら良かったのに、明らかにスカートに隠れるだろうと分かっている位置、まだ治りきっていない痣がいくつか見てとれた。
分かってはいたけれど、エステルの体にある痣はこれだけではない。聖域にいれば治りが早くなるとはいえ、主にあまり傷を残したままにもしたくないルクスは魔法を使おうと手をかざした。
「ルクス。相談があるの。この痣、そのままにしておいてもらえないかしら」
「どうして!」
もちろん、エステルだってこのような事を頼むのは気が引ける。治りかけの痣を見て、自分の傷のように痛そうな表情をしているルクスにも、指先や手首に残る火傷の痕をさすってくれている妖精たちにも申し訳ない気持ちだってある。
けれどこの聖域に辿り着いて、青年やルクスと話したことで、エステルはひとつ心に決めたことがあった。
「カーラとルディアーナの事を、お父様に伝えたいの」
ルディアーナはともかく、カーラは本邸に証拠を残すような真似はしていないだろう。エステルの体に残る痣だって、家事に不慣れな令嬢が自分で付けたものだと言えなくもない箇所ばかり。
それでも、エステルが母を看病する姿を見ていた父にだったら、伝えることが出来るはずだ。
これだけ妖精たちから愛されていた母、そして愛し子ではないのに聖域に招いてくれた青年に、自分の事を主だと認めてくれたルクス。
そんな人達にエステルが出来ることは、逃げていたことから向き合うしかないのだから。
「だから、この痣は証拠として残しておきたいのだけれど……」
ダメかしら。そう、上目遣いで言葉を結んだエステルに、ルクスはしばし考えるような仕草を見せた後、長い長い息を吐いた。
「本当だったら、エステルに一秒だってそんな痣を残しておきたくない。
それは、分かってくれる?」
「ええ。わたしだってルクスに怪我があったら、きっと同じ気持ちだもの」
この主は時々分かったようで分かっていない言葉を素直に告げる。妖精が唯一と定めた主から、そのような言葉を受け取って舞い上がらないはずがないだろうに。
気持ちの高まりを表すようにぶわりと吹いた風に、思わずスカートを押さえたエステルが次に見たのは、指一本分くらいにしか距離を取っていないんじゃないかと思うくらいに間近に迫ったルクスの整った顔立ち。
エステルと同じ碧色の瞳は、金の睫毛が縁取っていて、宝石のように艶めきを放っている。ここ最近外を歩くことの多かったエステルよりも白い肌は血色も良く、涼し気な目元が落ち着いた印象を持たせている。
「分かってるならいいよ。それが望みなら、俺は従うだけだ」
わざとらしく耳元で告げられたその声は、意識して少し低めにしたのだろう。ぞわぞわっとした感覚と共に、エステルの体を抜けていった。
真っ赤になって自分と目を合わせようともしないエステルを見て、悪戯が成功したように笑うルクスは、周りでどうしていいのか分からないように漂っている妖精たちに声をかけた。
「さ、あの方が帰ってくる前に仕上げてしまおう。俺も手伝える?」
両手で頬を押さえて火照りを鎮めるような体勢から動かないエステルに、どれだけ自分がエステルのことを大事に思っているのか、少しでも伝わっているようにと願いながら。
ルクスは仲間の妖精たちに指示されるまま、エステルのスカートの裾を持ち上げ続けた。