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1.

 まだ日も昇りきらない薄暗い中、慣れた手つきで掃除道具を取り出しているのは、灰色の長い髪をひとつにまとめた少女。

 手早く自室の掃除を済ませると、水のたっぷり入ったバケツを軽々と持ち上げる。そのまま、軋んだ音を立てるドアを開いて向かったのは、少女が出てきた建物よりもずいぶんと立派な屋敷。少女が出てきたのが離れであり、こちらが本邸なのだからその大きさの違いも納得だろう。


「今日は何が残っているかしら」


 くぅ、と小さいながらも空腹を主張するお腹を押さえながらポツリと呟いた少女の声は、思いのほかよく響いた。慌てて周りを見渡した少女は、本邸から人の声や物音がしない事に安堵した様子でドアを開く。


「エステルお嬢様、今日は温かい物をご用意出来ましたよ」

「ありがとう、ゼスト。怒られない? 大丈夫?」

「わしは大丈夫ですよ。さ、お早く戻りなさい」


 モップとバケツを受け取ったゼストは、代わりのように僅かに湯気を立てる料理をエステルに手渡す。遠慮しているようにも見えるエステルの控えめな微笑みに、ゼストは思わずそっと頭を撫でた。

 母親譲りだった美しい銀髪は、ここしばらく手入れを出来ていないようでくすんだ灰色に見えるし、手触りだってごわついている。厨房以外の一切を侍女長のカーラが取り仕切るようになってから、昔の艶やかな輝きを取り戻すために必要なものは何なのかもどこにあるのかも、ゼストには分からない。

 それでも、厨房だけはゼストの管理下だ。だからこそ、追いやられるように離れに移ったエステルに、最低限だろうとも食事を提供することが出来ている。


「あら? どちらへ戻るのかしら」


 ガタン、とわざとらしく大きな音を立てて厨房に入って来たのは、茶色の髪をくるりと丁寧にカールさせた少女。髪と同じ茶色の瞳をついと細めた先にあるのは、先ほどゼストがエステルのためにと用意した料理。

 昨晩、少女が食べたものと同じメニューだが、こちらの方が見栄えは悪い。見ためが違えば咎められることはないだろうと考えていたゼストは、自身の甘さにぐっと拳を握りしめた。


「ルディアーナ嬢!? どうしてこんな早い時間に」

「だぁって、昨日からこそこそしていたじゃない、あんた」

「ルディアーナ、これは」


 ルディアーナは朝に弱い。この時間に鉢合わせたことはなかったのに、どうして今日に限ってとも思ったが、口下手なゼストでは間違いなくルディアーナの癇癪を買ってしまう。

 見た目だけは冷静に、内心焦っているエステルが説明するべく開いた口は、ルディアーナがゼストを睨み付けたことで止まってしまう。


「まさか、お義姉(ねえ)様に差し上げるつもり?」


 お義姉様、そう強調はしているがエステルとルディアーナに血縁関係はない。エステルは義妹だと思ったことも、そう呼んだこともないが。

 けれど、本邸にいるほとんどの使用人はおそらくルディアーナとエステルが義姉妹だと思っているだろう。ルディアーナは、エステルが母の看病のために離れに移ったあたりからずっと、義姉だと呼び続けているのだから。


「……いえ、まさか」

「そう。良かった。ゼストの腕はお母様のお気に入りだものね?

 それじゃあ、そのお皿をこっちにちょうだい」


 力なく首を振ってエステルに差し出していた手を引っ込めたゼストの様子に満足そうに笑ったルディアーナの言葉は、ゼストに対する脅しのようにも聞こえる。咎めたところでルディアーナの態度が改まることはないうえに、ゼストが何をされるかが分からない。

 ルディアーナの母は侍女長。今、この本邸を取り仕切り、エステルを離れに追いやった張本人なのだから。

 ゼストが自分のために用意してくれた温かい料理がルディアーナの手に渡るのを、ただ見ているだけしか出来ないエステルはそっと視線を逸らした。


「ルディアーナ嬢、どちらに」

「今日は野駆けの約束をしてるの。元気になってもらいたいから馬にあげるわ」


 エステルがぐっとしわだらけのスカートを握りしめているのを確認したルディアーナは、優越感に浸った笑みを浮かべた。

 エステルの俯く様子を見られたことで、ああ、なんて気持ちいいのだろうとルディアーナは早起きした自分を褒めている。今日はエステルが来るだろうと踏んだからこんな朝早くに厨房に足を運んだけれど、本当ならまだ布団で微睡んでいる時間なのだから。


「お母様はデザイナーを呼んでいるから、家にいるわよ。昼食はそのつもりで作ってちょうだい」


 去り際に、エステルには当然知らされていない今日の予定をわざわざ告げてから、ルディアーナは厨房から出ていった。

 入って来た時と同じくらい大きな音を立てて閉まったドアを呆然とした様子で眺めていたゼストは、ハッとした様子でエステルに頭を下げた。


「お嬢様、申し訳ありません! わしがもっと注意を払っていれば」

「いいのよ。あのタイミングで来られたらしょうがないわ。あの子が野駆けに行くのなら、その間に森に果物をもらいに行ってくるわね」

「……わしはどうにかして、ハンスに現状を伝えておきます」


 どこかに隠せるように、小さく焼いてくれたパンをスカートのポケットにねじ込んで、ゼストはエステルを送り出した。それしか出来ない自分に不甲斐なさを感じながら、それでも不器用な笑顔を向ける。

 エステルは、長い付き合いのゼストの性格をよく分かっている。だからこそ、笑顔がどれだけぎこちなくても、それはゼストなりの気遣いなのだと理解していた。


「ありがとう、よろしくね」


 入れ替えた水がたっぷり入ったバケツを抱えて離れに帰って来たエステルは、ベッドに腰掛けるとポケットから小さなパンを取り出した。

 昨日焼いたものだろう、固くなっていたけれどエステルには貴重な食事だ。ゼストがいなくなってしまったら、このパンすら手に入れるのが難しくなってしまう。ゼストもそれが分かっているから、カーラ好みの料理を作り続けてくれているのだから。

 食事を与えようとしないなんて、使用人よりも低く扱っていることを父が知ったらどうなるかなんて分かりきっているだろうに。

 それでも、自分の扱いを変えようとしないカーラに、エステルはもはや呆れの感情を抱いていた。


「お父様に手紙を出すにしても、本邸の印を使わないと時間がかかり過ぎてしまうわね。

 そもそも、本邸に素直に入れるのだったら、わたしもここまで苦労はないはずなんだけど」


 本邸の女主人のように振る舞っている、カーラ。父の親戚筋の知り合いで、夫を事故で亡くしてから働き口に困っていたところを拾われたと聞いている。

 侍女として迎え、働きぶりから侍女長の役職を預けてはいたけれど、それがどうして今やこのフォルカー伯爵家の女主人のように振る舞っているのか、エステルには理解できなかった。権限を取り上げようにも、父は宰相補佐の仕事で忙しくてなかなか家に帰ってこない。

 母の病気療養の身の回りの世話をするべく、一旦離れに移った時にエステルの持ち物はごっそりと奪われてしまった。そのなかには、女主人が持つはずだった指輪もある。

 執事頭のハンスがいれば阻止できたのだろうが、あいにくと父の代わりに領地の視察に向かっていた時の出来事である。


「カーラに会えれば話が出来るのに、本当にタイミングが合わないのよね」


 ただ、自分がいるべき場所に当たり前のように居座ったカーラの娘であるルディアーナのことは、少しだけ不憫に感じていた。

 今、本邸の使用人として働いている者は、ハンスとゼストを除けば、みなエステルが離れに移ってから雇われたものだ。もちろん、選んだのはカーラ。その娘であるルディアーナのことを、相応の立場だとして扱うことに何の疑問も持たないだろう。

 カーラは自身の事を女主人だとか直接的な言葉を口にしてはいないだろうし指輪だって身に着けてはいないはずだが、誰一人として離れに住んでいるエステルの様子を伺いに来たことがない。

 この調子なら、本邸に姿を見せたところで追い払われるか、カーラを呼ばれるかだ。むしろ、それでカーラを呼んでくれたらいいのに、と突撃しようかと考えたことだって少なくない。エステルがそう思っている時に限って、まるで本邸に行くのを邪魔するかのような出来事に見舞われている。


「考えていても仕方ないわ。森の果物を分けてもらいに出るのだから、送るだけ送ってみましょう」


 年季の入ったデスクは、母が嫁入りの時に持って来たもの。本邸に残しておかなくて本当に良かった、とエステルは当時の自分の選択を褒めながら、なめらかな手触りを楽しむ。

 本邸に残してきた物は、カーラの手によって売り払われてしまったとゼストが悔しそうにしていた。厨房を仕切る以外の能力は自分になく、ハンスもいない間の出来事だったからどうにも力になれなかったとエステル以上に憤っていた。

 自分よりも怒ってくれる存在がいる、それは味方がいなくなったと思っていたエステルにとってはとても心強かった。


「さて、やりますか」


 朝からの掃除でもう十分に体はほぐれているのだが、なんとなくの癖でデスクに向かう前にぐぐっと伸びをする。

 ふう、と気持ちを切り替えるように息を吐いたエステルは、真っ白な便箋にお手本のようなきれいな文字を連ねていく。母から教わった文字は今でも、エステルの力だ。そして、最後に母と自分だけで考えたエステルのサインを入れる。小さい時から父に手紙を送るときにはこのサインを入れていたから、一目見ればエステル本人からの書だと分かるはずだ。

 それでも、王城の中枢に近いところで働いている父のもとに届くまでには、検閲もあるし時間もかかるだろうけれど。

 そういえば、ここしばらくハンスの姿を見ていない。王城にこもりっきりの父の傍にいるだろうから、その点だけは安心だ。ハンスがいれば、父だって体調を崩したりはしないだろうから。それでも、たまには帰ってきて顔を見たいと思うくらいには、エステルだって子供だ。

 思い立ってサインで締めたはずの手紙にそっと殴り書きのように、今の気持ちを素直に残した。


「ねえ、お母様。わたし、お母様の教えを守れているでしょうか。

 ……褒めて、もらえるでしょうか」


 開けっ放しの窓から入った風が、ふわりとエステルの髪を揺らす。俯いたときに入ってきた光によって、母譲りの銀に輝くように見えた自分の髪を一房摘まんで、くしゃりと顔を歪ませたエステルはその場に座り込む。


 “いいこと、エステル――”


 脳裏に浮かんだ母の笑顔、そして幾度となく口にした言葉。

 大切に首にかけている母の形見のネックレスをぎゅっと握りしめながら、声を押し殺して泣くエステルの姿は、窓から入り込んだ光だけが見守っていた。



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