盲目の子
いつも通りスマホを触りながら、いつも通り電車に揺られる……そんなある朝のことです。
「今、私のこと触ったでしょ」
いつも通りではない言葉が聞こえました。
振り向いた先には……ニヤニヤと笑みを浮かべた女がいます。
「それは私に言っているのですか?」
問いかけると女は大きくうなずいて、私の袖をつかんで引っ張ります。
「とにかく降りるわよ」
「待ってください。もしかすると手が当たったかもしれませんが、この満員電車です。多少は仕方がないのでは? それに私は、会社に行かなくては――」
「そんなこと知るもんですか。大体あんたはこれから警察にお世話になるのよ? 会社になんか二度と行けるもんですか!」
私はぐるりと辺りを見渡しますが、みな目を逸らしていますね。
それも当然のことです。
誰だって、こんなことには関わり合いにはなりたくないでしょう。
ふと、私は女の顔に目をとめました。
―――これは、
「ちょっと、聞いてるの?」
「あぁ…どういったお話でしたか?」
「だから! 十万出せば見逃してやるって言ったの!」
なるほど、そういう手合いですか。
これでは本当に私が触れたのかすら怪しいものです。
ですがまあ、好都合ではありますね。
「あいにく今は手持ちがなく……もしよければ銀行までついてきてはくれませんか?」
女は少したじろいだように見えましたが、すぐに持ち直しました。
「なかなか物分かりがいいわね。それじゃあ行きましょうか」
最後に私はもう一度周りを見ます。
もちろん、誰とも目は合いませんでしたが。
とりあえず、人気のないところを探しながら路地裏を先導していきます。
「ちょっと! どこに行くわけ?」
「こちらが近道なんですよ」
ふむ、さすがに警戒されているようですね。
ですが―――この辺りでいいでしょう。
私は立ち止まって女に向き直りました。
「さて、お願いがあるのですが」
「なっ、なんなのよ! さっさと金を出しなさいよ!」
ものすごく警戒されていますね。
なにかぼろでも出していたでしょうか?
「私、あなたを一目見た時から惚れこんでしまいまして……」
途端、女の様子が変わりました。
「なんだ、そういうことだったのね。でも私ウリはやってないの」
「ウリ…ですか?」
「なぁに違うの? もしかして、本気で告白とか考えてるわけ?」
そこでようやく、私はお互いの認識がズレていることに気がつきました。
「ああ、そういうことではないんですよ。私はただ―――あなたの耳があまりに美しくて」
女は目を見開いて数瞬固まり、いきなり叫びだします。
「あなた一体なんなのよ! じゃあ何? 欲しいのは耳だけで私はいらないってこと?」
「ええ、その通りですよ? 私としては耳だけいただければそれでかまわないんです」
言いながらナイフを取り出し、女の耳にあてがおうと近づきます。
「動かないでくださいね。手が滑ったら危ないので」
「こっちに来ないで!」
女は私の話を聞かずに逃げだします。
はあ……このお願いをすると、みなさん逃げてしまうんですよね。
また手元が狂って殺してしまうかもしれません。
私は女を捕まえるため、動き出しました。
「もしもし、主任ですか? はい、まことに申し訳ありません。急用ができてしまいまして……はい、その件は期日までに必ず」
そろそろ血抜きが終わりましたかね?
ですが、残念ながら保存用のホルマリンは家にしかありません。
驚くほど白く、多くの紅に染まった形のいい耳を、私は丁寧にハンカチに包み込みました。
路地裏を出ると、晴れやかな日差しが私を出迎えてくれます。
素晴らしい出会いを祝福してくれているかのようで、私は足取り軽くその場を去るのでした。
最寄り駅から歩いて十五分ほど、町の中心から少し外れた閑静な住宅地に私の家はあります。
一刻も早く新しいコレクションを『保存』したいところなのですが……
そろそろミケの餌がなくなりそうなんですよね。
しかたないのでコンビニに寄り、餌とお酒、ホットスナックを買いました。
「やはりよいことがあった時はお酒に限りますね」
独り言を呟き、ホットスナックを齧りながら歩き慣れた道をたどります。
玄関では私の唯一の家族であるミケが丸くなって寝ていました。
ミケはどうしてこんなところで丸まっているのでしょうか?
しかし、今の私はとても気分がいい。
餌入れに手を伸ばし、買ってきた餌の一部を入れてやります。
「ミケ、おやつにすこしいい缶詰を買って来たんだ。気が向いたら食べなさい」
さて、ようやく本番です。
作業部屋に入り、扉をしっかりと閉めます。
作業中にミケが入ると危険なので、しっかりと点検してから始めましょう。
今日のコレクションが万が一にも劣化しないよう、丁寧に処理を進めていきます。
それが終われば『鑑賞』の時間。
棚にコレクションたちを並べ、私はその一人一人に話しかけます。
「―――そういう訳で、今日は君たちの仲間が増えたんだよ。彼女をどうしたのかって?どうだったかな……あんまり覚えてないんだ。ごめんね」
愛しいコレクションたちは静かに私の話を聞いてくれます。
私という個人を「視て」くれているのです。
その行為には何もいらない。
私の話を聞いてくれる耳だけで充分事足ります。
ああ、私はなんと幸せなんでしょう。
話を聞いてくれる方がこんなにいるなんて。
私は一通り話し終わると、ひと時の別れを惜しみつつ部屋を出ます。
「いけないな、もうこんな時間でしたか。とりあえずお風呂に入って、その後晩酌ですかね」
私は着替えとタオルを用意し、脱衣所へと持っていきます。
その時ふと、鏡が目に入りました。
そうなってしまえば、これまで素通りしてきたことに驚きを隠せませんが―――気が付いてしまったのです。
「この耳―――なんて魅力的なんだ」
そう。
思い至ってしまえば単純な話ではありましたが、これまで私の話を一番聞いてくれていたのは、まぎれもなく私自身だったのです。
私はゆっくりと、なかば茫然としながら部屋に戻り、愛用のナイフを、これまたゆっくりと柔らかな耳へ押し付けます。
これまで幾度となくしてきたことです。
しかし私の心は嵐のように荒れ狂い、凪のように静かで、それでいて生涯の友を見つけたかのような高揚感にも包まれていました。
私は切り取ったものを掲げ、見つめたのち、それを両手で包み込みます。
「今までで一番美しいですね」
「にゃー」
いつの間にか足元に来ていたミケが答えます。
どこか気の抜けた返事を最後に、私の視界は昏く染まるのでした。
私は普段ほのぼの百合を書いているんですが、なんだか行き詰ってきていまして
これは色々と新しい試みをした作品となっております(想像以上にくろくなりましたが)
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