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アントニオに動きを指導してもらい、何とかそれらしい動きを修得したロスヴィータは、へとへとになっていた。アントニオに“できる”と言われた手前、完璧とは言わずともある程度はできるようになっていないと恥ずかしい。そんな自分のこだわりが生み出した疲労である。
疲労困憊の中、気は進まないが実家へと帰路につく。見合いを何度断っても、その断りが届く。いい加減にしてくれ、とそろそろ直談判しに行かなければならないだろう。
その為にも、両親と打ち合わせをしなければならない。面倒だが仕方がない。どう転んだって、アルフレッドからの申し込みを受ける気はないのだ。
「面倒だ……」
どうしたら諦めてもらえるのだろうか。断りを入れるだけでは通用しない相手に、どう切り込めば良いのだろうか。考えるだけで頭が痛い。
話が通じない相手と対峙する時こそ、厳しいものはない。それも、ほんの少しだけ相手の方が家柄が上である。やっかい、以外の何者でもない。
ぽつぽつと灯りがつきはじめた街をゆっくりと歩く。夕暮れ時で、足早に自宅へと向かっているであろう人々が影を運び去っていく。残るのは、ロスヴィータのようにゆっくりと歩く少しの人間と、家の影。
疲れているからといって、のんびりしすぎたかもしれない。ロスヴィータは人の往来がかなり少なくなってから、歩く速度を上げた。
少し動けば汗がにじむ。今は夏の終わり始め、まだまだ暑い日もある。今日は過ごしやすい日だったが、ロスヴィータの額に小さな汗の滴が浮かび始めていた。
そんな時、わき道から人影が躍り出た。転がるようにして現れた人影は、ロスヴィータの目の前で倒れ込む。思わず蹴り上げそうになり、それがぼろぼろになった人間であると認識してやめた。
「うわっ」
「ひぃいぃぃ!」
何なんだ、一体。ロスヴィータは騎士である。騎士である彼女には治安維持も職務の一つであった。
「どうした、大丈夫か?」
女性騎士団の制服をまとった彼女を見て、倒れ込んだ人物はほっとした顔を見せる。
「じ、実は追われていて」
暗くなってきてよくは見えないが、確かにそう言う口元には殴られたはずみに口の中や唇が切れてしまったのであろう、血のようなものがにじんでいた。
ロスヴィータは安心させるようにゆっくりと頷いて見せ、優しく声をかけた。
「立ち上がれるかい?
早くここから離れた方が良い」
手を差し出せば、握り返してきた。その手はごつごつとしており、職人の手のようでもあり、剣だこのようでもある。しかし今はそんな事はどうでも良い。早く匿ってやらなければ。
あちこち泥だらけで、明るいところで怪我の具合も確認せねばならない。少しでも早く安全な所へと連れて行く必要があった。
ぐいっと力を込めて引っ張り、立ち上がらせる。勢い余ってよろけた。
「おっと。さ、行こう」
見回り中の騎士を探すのは厳しい今、ロスヴィータに思いつくのは街にある騎士団員の詰め所へと避難する事だった。ここからそう遠くない場所にある詰め所の方へと向いた時、繋いでいた手を引っ張られた。
「うん? どうし――かはっ!」
振り返る動きに、殴りかかる力が加わり、通常以上の打撃がロスヴィータの鳩尾に入った。
「優しいな、王子様」
「く……」
腹を殴ってきたのは、保護しようとしていた青年だった。その顔は少しばかりすまなそうに見える。人助けをしようとして安易にだまされたロスヴィータに同情しているのだろうか。
「ただ連れて行きたい場所があるだけだから、おとなしくしてろよ」
途端、うなじを鋭い痛みが襲い、ロスヴィータが彼が言った言葉の意味を考える暇なく暗転した。
ロスヴィータが実家に戻る日は、エルフリートも王都内の別邸に戻る。それはエルフリートなりの自分を見失わないようにする役割を担っていた。女装もだいぶ板に付いた――というよりは女装が日常になったという方が正しいだろう状況は、カルケレニクスの名を継ぐ身としては不安がある。
本来の“エルフリート”を見失わないように努力をする場所が必要だった。この屋敷は、そんな目的に相応しい場所である。
戻る時は必ずエルフリートとして過ごす。ここにいる家令と侍女は些細な不自然さを見つけた場合、必ずエルフリートに指摘するよう命令されており、エルフリート自身が気を抜けないようになっていた。
「エルフリート様」
「何だい?」
「マディソン家の家令から、手紙を預かりました」
「……うん?」
受け取ってみれば、確かに封蝋にはロスヴィータの家の家紋が押されている。ファルクマン公爵の印でない事から、極めて私事だと推察できた。
「何だろうね……ありがとう、早速確認するよ」
ナイフを差し込んで封蝋をはがす。中には一枚の手紙が入っていた。エルフリートの瞳がその中身を撫でるように動く。
「は? いや、私はそんな事しないよ?」
ロスヴィータがまだ帰宅しない事、もしエルフリートの所にいるのならば戻ってくるように伝えてほしいと書かれている。
ちょっと待って。エルフリートはもう一度手紙の中身を読み直した。
……まあ、内容は変わらないんだけど。やっぱり、エルフリートの所に遊びに行っているのではないかと書かれている。……この私が彼女を連れ込む訳がないじゃないか!
エルフリートはちょっとだけむくれた後、冷静になった。
ロスヴィータの実家に帰っていなくてエルフリートと一緒にいないなら、彼女はどこへ行った?
エルフリートは、ロスヴィータにこれから実家へ戻るのだと聞いて別れた。つまり、マディソン家からこんな手紙が届くはずがないのである。
「……どうしよう、何かあったのかも」
ロスヴィータは強いが、同じくらい強いエルフリートが誘拐されそうになったという前例がある。絶対に大丈夫だという保証はない。それに、しつこい男がいるという話を聞いたばかりである。
もしも、と考えるだけで心の奥底が冷え込んでいき、奥歯に力が入る。どうやって見つけだす? いや、まずはロスヴィータのご両親と話をする方が先か。
「ファルクマン公爵家へ行く! すぐ用意しろ!」
誰のせい、とも何も分かっていない状況で勝手な想像だけで動いては駄目だ。エルフリートは女性騎士団の制服に着替え、ファルクマン公爵の屋敷へと馬車を急がせるのだった。
2021.2.13 誤字修正




