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トイレの一室でロスヴィータはため息をついた。そっと身につけている仮面を外す。今夜は仮面舞踏会。普段とは全く異なった、煌びやかなドレスを身にまとっている自分が好きではない。開始早々逃げてきてしまったのだ。
仮面さえ付けていれば。そう母親が言った。その時の事を思い出す。
「あなたは胸元はそうでなくても、それ以外は他に引けを取らないくらいとても立派よ。
筋肉で引き締まった肉体が簡単に作れるものではないと殿方は分かっています。そんなあなたの事を邪険にしたりする方はいないわ」
「ですが!」
ルイーズは、ロスヴィータが声を荒げるのを朗らかに笑い飛ばした。
「あなたに似合うドレスを用意したの。行きなさい」
「母上!」
「お・か・あ・さ・ま」
笑顔でありながら、有無を言わせない。それが貴族の女性。その中でもルイーズは公爵夫人だ。王家の血を引く人間の一員なだけあって、表情豊かに見えて全くそうではない。
ロスヴィータは口の端を震わせて言い直した。
「良いこと? あなたはとても男前な顔をしているわ。でも、年頃の娘でもあるの。そろそろ女性として生きる練習をしていかなければ。
顔を隠せば誰だって美人になれる。本当よ」
そう言いながら彼女は目元を手で隠した。ふっくらとした唇が蠱惑的な笑みを作る。
「仮面をかぶっていれば、どんな女だってドレス次第で美女になれるわ。
今までは流行に合わせて似合わないドレスを着せていたけれど、これからはあなたらしいドレスにしましょう。
美女になって、周囲を驚かせなさい。王家主催の仮面舞踏会だから、色々と安心よ?」
「お母様……」
身元のはっきりとした人間しか参加できない仮面舞踏会。正直、ロスヴィータは仮面を付ける意味があるのか、と問いたくなる。
「もう、招待状に参加のお返事を出してしまっているから、逃げられなくってよ」
「……参加します」
ロスヴィータには、断る余地など最初からなかったようだ。しかも、その舞踏会は明後日だという。急に呼び出された本当の意味をようやく理解するロスヴィータだった。
こうして舞踏会の会場に降り立ったものの、華やかな社交場は得意ではない。ロスヴィータはやはり土埃にまみれて剣を振っている方が好きなのだ。
今日着ているのは、深紅のドレス。燃え盛る炎をイメージしたビーズがちりばめられていて、彼女が動くたびに火花が散るような雰囲気を与えている。
それに対して身につけている宝石は軽やかな青空を思わせるようなアクアマリン。赤と青。炎と水。対局的な存在を組み合わせて攻撃的にしている。肩幅がある為、威圧感も増しているように感じた。
男らしい雰囲気を持つロスヴィータに負けない存在感のある装いは、彼女をミステリアスで強気な女性へと変貌させていた。それに加えて、この仮面。手にしている仮面を見つめた。
仮面の地色は、これも深紅。金糸の刺繍で縁取られ、エメラルドとアクアマリンで作られた模様が複雑な模様を描いている。遠くから見ると、それが炎の色の変化に見えるような意匠になっていて手が凝っている。
仮面の中央、ちょうど眉間の辺りにある黄金の台座に大きなアメジストが埋められていた。その上部からは染められた水鳥の羽が生えている。
やや明るめの、水を感じさせる色彩の羽が、少しだけ清楚な顔を覗かせる。しかし全体の印象を言うならば、けばけばしいように思う。それにこのアメジスト。まるでエルフリーデの瞳のようではないか。
――エルフリーデ。ロスヴィータは舞踏会に参加しているにも関わらず思考にふけった。
彼女の腕には、よく見れば気がつかないほどに薄くなったものの、やはり傷が残ってしまった。あれ以来彼女の言葉を思い出しては、結論が出なくて悩んでいた。
彼女の表情からして、ロスヴィータをからかおうとした風には見えなかった。でも、結婚してやる事はできない。自分が男ならば、躊躇せずに申し入れていた。そう。自分が男ならば。
ロスヴィータは仮面をかぶり直し、個室を出た。目の前の鏡には、細身ながらも堂々とした出で立ちの美しい女性が映っている。自分は女なのだ。それが己の心に大きな影を落とすとは思っていなかった。
凛とした瞳と見つめ合う。エルフリーデの事は好きだ。でも、それは友情であって、恋情ではない。男であれば、友情のまま彼女を娶ったと思う。それが、いつしか愛に変わるかもしれない……そんな思いを抱きながら結婚するのだろう。
どうして女に生まれてしまったんだろうか。どこから見ても女としか見えないこの姿を見る事で、自分がどれほどに努力しようとも“王子様”にはなれないのだと突きつけられた気がした。
その時、ドアノブの回る音がした。びくりと肩を震わせる。
「ふふ、アルフレッド様をご覧になりました?」
「ええもちろん!」
「あんなに格好良いのだもの、仮面をしていたって一目で分かってしまいましたわ」
「もう、何て素敵なのかしら。一度で構わないからダンスを申し込まれたいわ」
話に花を咲かせた二人組が入ってきた。ロスヴィータは不審に思われないように、そっとその二人と入れ違いになるようにしてトイレから出るしかなかった。
思考するのを止め、会場へと戻る。一度は誰かと踊った方が良い。それは分かっていたが、中々気が向かない。ロスヴィータは気が向くまで人混みに紛れようとした。
「そこの美しい方」
あちこちで男性の口説き文句が聞こえる。夜会は社交場であり、情報交換の場であり、ちょっとした恋のお遊びの場である。お盛んな事で。そうロスヴィータは思いながら一歩踏み出す。
「炎の女王、あなたの事ですよ」
炎、と言われて足を止める。心当たりは十分にある。ゆっくりともったいぶるように振り返った。
「……わたくしの事、ですか」
「やっと気がついてくださった」
振り返った先には、先ほど女性たちの噂になっていたアルフレッドがいた。ロスヴィータの遠い親戚に当たり、順番は下位の方であるが、一応王位継承権のある人物である。
アルフレッドが話しかけたのを皮切りに、他の男性も集まってきた。面倒そうな気配がし始めていた。
2022.6.7 誤字修正




