リンゴ好きの悪魔
「…………」
とある悪魔がそこにいた。
彼は確かにそこにいるのだが、透明であるため、彼から行動しない限りは誰にも気づかれることが無かった。
教会から少し離れた大樹の側で座り、その大樹にリンゴが実るとそれを食らう。不思議と彼が近くにいると、季節に関係なくその大樹にはリンゴが実る。
普段やることもリンゴを食う以外何も無いので、彼は退屈だった。
教会の神父たちも、神だとか天使だとか綺麗なものばかり信じるため、仲良くできそうにも無い。
数百年ほど前に、興味本位で飢えた教会の連中にリンゴを分けてやると、やつらはこぞって彼のことを天使だと呼んだ。
本来悪魔である彼は天使と呼ばれることが気にくわなかったため、それ以降他人にリンゴを与えることはしなかった。また、自分がいるというのも知られたくなかったので、特定の季節以外はリンゴが実るとすぐに食らうようにしている。
先ほどは退屈だと言ったが、彼は決してその退屈さに不満を抱いているわけではない。もうじきこの退屈さにも慣れ始めてきた頃合いである。
「…………」
幾度も太陽と月が入れ替わりで世を照らし、今は春になった。悪魔は今日も大樹の下で、すぐ近くの川で水が流れるのを眺めていた。
「あ?」
すると、そこに一人の修道服を着た少女がやってきた。木でできた桶を持ち、川の近くにやってくる。
「うん……しょ」
垂れる茶色の髪を耳にかけ、少女は熱心に水を汲む。
あんなに水を汲んで、一人で持って帰れるのだろうか……などと悪魔は考えていた。ずいぶん欲張りなガキだ……とも思ったのかもしれない。
「よいっ……しょ」
桶いっぱいに水を汲んだ少女は腕に力を込め、その桶を持ち上げる。
しかし……予想以上に水が重かったようで……。
「きゃっ!」
少女は足を滑らせ、川に落ちてしまった。それほど深くない川だが、焦る少女は暴れ、水を吸い込んだ修道服が重くなる。
そして、そのまま川に流されていった。
「けっ」
馬鹿なガキだ……と悪魔は思った。このままあの少女が溺れ死んで、悲しむ家族の顔を見るのも面白いと思った。
「…………」
しかし、今日の悪魔は気まぐれだった。久しぶりに背中から翼を広げ、空を飛ぶ。そして、溺れた少女の襟をつかみ、引き上げる。
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「…………」
少女を大樹の下まで運ぶと、悪魔はその場で座り、少女を見つめる。まだ幼い顔立ちのその少女は溺れた時に気を失っていた。
悪魔は依然として何も喋らなかった。ただ気まぐれで助けたはいいものの、別に少女と関わりたいという気持ちは無かった。
ただ、そのまま少女は目覚め、何も知らないまま家に帰ってほしい。それだけだった。
寂しさなどという感情は悪魔には無かった。そもそも、数百年生きてきて、奇抜な感情というものは失っていた。そんな感情に出会えるものなら出会ってみたいものである。
ふと……悪魔はまた退屈になっていた。何かやろうと思うが、やることといったらいつもの決まったあれしかない。
がぶりっ。
悪魔は今日もリンゴを食らう。
このみずみずしい味を、悪魔は飽きることができなかった。
夢中に食らい、そして、芯の部分を少し離れた川に投げ入れようとした。
そう……投げ入れようとしたのだった。
「えっ?」
その声を聞いた瞬間、悪魔の体は固まる。恐る恐る、横を見る。どうか、その声が聞き間違いであることを悪魔は祈る。
「なんで……リンゴが……」
そこには、目を覚まし、こちらを……いや、正確には宙に浮かんでいるリンゴの芯を眺めていた少女がいた。
……これは完全に悪魔のミスである。自分の体は見えないが、食べていたリンゴは少女にも認識することができるのである。
「どう……なってるの?」
……どうか、食べているところまでは見られていないでほしい。それならば、ギリギリ自分の存在は隠せるであろう。
「なんで……リンゴが削れていったの?」
そんな願いも、その少女の一言で虚しくも散ってしまった。
「…………」
「…………」
お互い固まったままで、その場は風のみが吹いていた。
「…………」
「…………」
「……ふぇっ」
そんな沈黙の空気を破ったのは少女の方だった。
「ふぇっくじょおおんっ!」
少女は、少女にあらぬ勢いのくしゃみをした。先ほど川に入り、服がびしょ濡れのままだったからだろう。
そのくしゃみは悪魔にも降り注いだ。水滴がつき、若干悪魔もキレそうになった。
「……ふぇ?」
ハンカチで顔を拭くも、目の前に自分のくしゃみに含まれていた水滴が浮いているのに気づく。
少女はハンカチを片手に、その水滴に触れようとする。その時……。
「……触んなよ」
「びえっ!」
突然何もない空間から声がして、少女は驚く。
悪魔もさすがにここまできて隠し通す肝は持ち合わせていなかった。
「あなたは……誰?」
「…………」
少女の問いかけに悪魔は応じない。
「…………」
「…………」
再び無言の空気が始まった。
*******************************
あれから、約二時間が経過していた。日が沈んでいき、今は夕焼けが美しいのだろう。
美しいのだろう……というのも、その夕焼けは悪魔の背後にあるため、悪魔自身は確認のしようも無い。
悪魔は思った。
――……なんで、こいつずっと俺のこと見てんの?――
なぜか、少女はその質問をした後、一秒たりとも悪魔から目を離さなかった。そのため、相手の隙をつき、リンゴの芯を投げ捨てることもできはしなかった。
そのため、二時間も悪魔はずっと同じ体勢である。悪魔はそろそろ肩が痛くなってきた。こんなにも長い二時間は初めてである。
「…………」
無言で常に見つめられる。こんなことは悪魔の生きてきた中でめったに遭遇しない出来事だった。
だからか、この状況に悪魔は我慢の限界だった。そして、とうとう悪魔の方が折れてしまった。
「……悪魔」
「……え?」
まさか、数百年生きてきた自分が、たかが十年生きたかどうかすらわからない少女に根性で負けるとは思いもしなかった。
「あなた……悪魔なの?」
「……そうだ」
面倒なことになってしまった……と悪魔は思った。どうせなら、天使と答えるべきだったと後悔した。
かつて、悪魔として正体がバレた時、自分を追い出すために気に入っていた木を焼かれたことがあった。あの時は少しばかり面を食らったものだ。
そんなことになるぐらいなら、天使として崇められた方がまだ気分が良いものである。
しかし、悪魔はこの異常な少女を前にそこまで頭が回らなかった。まったく奇妙な少女に出会ったものである。
でもまあ……たまには刺激的な出来事が欲しくなってきた頃でもある。いっそ大切なものを焼かれて、また別の地を探すのも悪くはない。
悪魔はすでに諦め、そんなことを考えていた。そんな悪魔を少女は見つめる。
「……あなた……」
「…………」
「そうとうネガティブなのね」
「……あ?」
悪魔は少女の言った意味がよくわからなかった。ネガティブ……? 自分のどこが?
「だって姿が見えないのに、どうして自分が悪魔だってわかるのよ」
「…………」
どうして悪魔だとわかるか……。そう言えば、いつから自分は悪魔だと思ったのだろうか。
「……まあ、ネガティブだからな」
「……それってあんまり関係なくない?」
「ネガティブなんじゃねえの。……悪魔ってやつは」
「そうかしら……」
悪魔はそんな無知な少女に対して言う。
「そもそも、お前が川で溺れている時、お前が死んだ時に悲しむ家族。それを妄想して楽しんでいるやつだぜ。こんな性格のやつ、悪魔以外の何者でもないだろ」
「……でも、結果的にあなたは私を助けた。違う?」
「…………あ?」
やはり、悪魔は少女の言ってることを理解できなかった。助けたからなんだというのだ。
「あなたは私が死んで悲しむ家族がいると考えた。だから、私を助けたんじゃないの?」
「……ちげえよ。ただの気まぐれだ」
「気まぐれ……つまりは無意識に人を助けられる。それって本当に悪魔?」
「……何が言いてえんだ?」
そう問いかけると、少女は笑みを浮かべる。
「そもそも見た目がわからないのに、自分を悪魔だって決めつけてるのがおかしな話じゃない? 私からしたら、天使だろうと悪魔だろうと、溺れているところを助けてもらった命の恩人には変わらないわ。だったら、見た目が無いなら自分のことを大天使だの神様だの、言っちゃえばいいのに」
「……それが……命の恩人に対する態度かよ」
「……別に……気にくわなかったなら謝るけど……」
ドゴっ。
その時、突然悪魔は大樹を蹴る。
「……いたっ!」
すると、少女の頭にリンゴが落ちてくる。少し痛かったのか、頭を抑える。
「……それ持って、今日は帰れ」
「えっ……でも……」
「……その服のまんまじゃ、風邪引くぞ」
少女は自分の姿を見て、身震いする。そして、立ち上がり、教会の方に向かう。
「……それもそうね。……あーあ。せっかく悪魔と話せる珍しい機会だったのに」
「…………」
悪魔は離れていく少女を見つめる。そして……。
「……おい」
「……はい?」
「……今日は……久しぶりに面白いものが聞けた。明日も……たぶんここにいる」
「…………」
少女は目を丸くしていた。そして、口元に笑みを浮かべ、悪魔を見つめる。
「ええ。明日はリンゴの料理を作って持ってくるわ」
そう言うと、少女は再び教会に向かって足を進める。
「…………」
悪魔は再び自分のいた大樹の側に向かう。
「……あっ」
すると、少女を助けた時に彼女が持っていた桶がそこにはあった。
「……けっ」
今ごろ自分の仕事を忘れていた少女が教会の人間に怒られているのだろう。そんなことを思い浮かべ、悪魔は微笑む。
「まったく、こんなこと考えるから悪魔になっちまったんじゃねえのか」
彼はその桶を拾い、しばらくそれを眺めていた。
「明日、リンゴでも入れて渡してやるか」