2-3 ナリト国、シューレンの森の奥で
少年は彼女の言っている意味がいまいちよく分からなかったが、今頼れるのは彼女しか居ないため、彼女の手に右手を乗せた。
ユカは左手に乗った少年の手を、頬杖をついていた右手で包んで細く息を吐いた。
「ちょっと気持ち悪かったりくすぐったかったりするかもしれないけど、我慢してね」
そう言うと静かに目を閉じた。
少年の右手からぞわり、と一気に耳元までえも言われぬ感覚が走る。それはじわじわと胸へ腹へと広がっていく。思わず手をそっと外したくなったが、我慢しろと言われた手前、僅かな身動ぎすらしてはならないような気がして、ふ、と切なく息を吐いた。
集中して彼の体に自分の魔力を流し、誰がどんな魔法で彼の記憶を封じたのか痕跡を探る。
目を閉じた真っ暗な視界に、見えないはずの魔力が白銀色のせせらぎになって煌めく。
これは刀傷、これも…と二晩前にかけた治癒魔法の跡をなぞりながら、やがて左の肩口の傷を治した痕跡で止まる。それは刀傷のような鋭いものではなく、獣に噛まれたような跡。そこから禍々しい魔力の残滓と、相反する清らかな魔力、二つの気配を感じ取った。
黒い禍々しいものが記憶を失った原因、白い清らかなものが、恐らくネックレスの守りの力なのだろう。真っ黒い魔力の跡に触れ、その正体を探る。
(…!記憶を飛ばすなんてモンじゃない、コレ…!誰だこんなん仕掛けたの…!)
彼にかけられた魔法がわかり、誰がかけたのか更に探ろうとした時、思い切り白い魔力に弾かれてしまい、ユカの魔力は少年の外へと追い出されてしまった。
それと同時に目を開けると、力の抜けた少年と目が合った。
「君のお守りに追い出されたよ」
へら、と力無く笑って彼の手を放した。
「君の記憶が失くなった原因は、十中八九、呪いだっていうのはわかった」
「…呪い、ですか」
「そう、呪い。禁呪に手を出すなんて、相当だよね。君にかけられたのは、記憶どころか自我すら失くすようなモノだった。完全にかかってしまえば廃人…体がただそこにあるだけの、平たくいえばただの人形になるような物だね」
そう告げられて、少年の顔は青ざめる。
「だけど、そのネックレスのおかげで記憶を失くす程度で済んだ、というところか」
ユカに視線で刺されたネックレスを、服越しに握りしめる。守りの願いが込められているというそれを握っても、体の震えは収まらなかった。
はぁ、とユカは今日何度目かわからないため息をついて、少年に言った。
「さて少年、どうしようか。状況から察するに、世を渡り歩けば君の正体にはわりとすぐに行き着くかもしれないよ。禁呪を使われる程のイイトコの坊ちゃんが行方不明って話なら、すぐに広まりそうなもんだからね。」
少年はユカを見つめる。
「…けど、記憶の無い僕がそういう所に戻った所で、何も覚えていないから、誰を、何を信じていいのかもわからない…きっとすぐに殺されるでしょう」
「お、察しが良いね。私もそう思うよ。完全に、コイツは味方だ、という人がわからない限り、殺されに戻るようなものだと思う。」
自分が何者かわからないのは嫌だが、体は死ななくても、心が、自我が死ぬのはもっと嫌だ。
しかしこれからどうしたらいいのか。
行く宛も頼る所も無く、そもそも、シューレンの森、と言ったここがどこなのかすらわからない状態で。
「…まぁ、ここで考えても仕方ないよね。どっちにしろ、君は今、行く宛ないわけでしょ。こんな所で放って置いとく訳にもいかないし、しばらくは私が面倒見てあげよう」
少年の目が見開かれ、ユカを見つめる。
「…いいんですか?」
「うん、いいよ。
そういうことなら自己紹介くらいしておかないとね。私は名はユカ。ちょっと捜し物してるもんだから旅してるの。だからどこかに腰を落ち着かせることはできないけど、それでも良ければ着いといで、少年。」
黒い肩に触れるか触れないか程の髪を揺らし、二っと笑ってみせた。
「さて、名前もわからないなら、仮でも君の呼び名を決めなきゃだね。何か希望はある?」
希望、と言われて考えてみたが、思いつくものなどない。ふるふると首を振ると、ユカはまたしても軽く眉間に皺を寄せた。
ふと視界に、暗い森に咲く淡く光る青い花が映った。シューレンの森にのみ咲くと言われるその花の名を、ユカは少年に名付けた。
「あの花、サユキスっていうらしいんよね。花の色が君と同じだし、サユで。」
サユ、とぽつりと零した少年は、ふわりと微笑んだ。
「ありがとうございます。」