人間観察その2/広子ちゃん編
8.人間観察その2/広子ちゃん編
最近、私と一緒にいる時間がいちばん長い広子ちゃん。
この春高校生になりました。
三人姉妹の末娘で、桂子さんとは六つ歳が離れています。
大輔さんとはちょうど一回り離れた同じ寅年です。
学校に行っているとき意外は、ほとんど家にいます。
おかげで私は寂しい思いをしなくてもすむのですが、年頃の女の子が遊びにも行かないで、ずっと家にいるというのもいかがなものなのでしょうか?
私が心配しても仕方がないことですが、そんな広子ちゃんをじっくりと紹介します。
広子ちゃんが生まれたとき、桂子さんは既に小学校に通っていました。
次女の洋子さんも保育園の年中さんで、赤ちゃんの広子ちゃんは、二人にとってとても魅力的なおもちゃだったに違いありません。
広子ちゃんは仕事場に置かれたベビーベッドにいつも寝かされていたそうです。
“ガタンガタン”機械の動く音を子守唄代わりに過ごしていたのでしょう。
まだ、広子ちゃんが生まれたばかりの頃は、桂子さんも洋子さんも広子ちゃんを抱っこさせてもらえなかったそうです。
広子ちゃんが首も座った頃、監視付ではありますがようやく桂子さんは広子ちゃんを抱っこさせてもらえるようになったらしいです。
桂子さんが広子ちゃんを抱っこしているところを洋子さんが見たら、洋子さんも抱っこしたがるに違いありません。
なので、桂子さんが広子ちゃんを抱っこさせてもらえるのは、洋子さんが保育園から帰ってくるまでの間だけだったそうです。
だから桂子さんは学校が終わると、まっすぐに家に帰ってきて、仕事場に直行しました。
保育園のお迎えが午後4時なので3時50分になると、広子ちゃんを乳母車に乗せておばあ様と一緒に保育園まで洋子さんを迎えに行きます。
もちろん乳母車を押すのは桂子さんの役目です。
保育園の帰りには近くの公園で少し遊んで行きます。
いつもなら、砂場やブランコで泥だらけになって遊ぶのですが、汚い手で広子ちゃんには触らせてもらえないので、最近は、砂場やブランコでは遊ばずに、ずっと広子ちゃんの乳母車のそばで広子ちゃんを眺めていたそうです。
おばあ様が「遊ばないならお家に帰るよ。」そう言うと、「遊ぶ!まだ帰らないよ。」とブランコのほうへ慌てて駆け出して行ったそうです。
いつも二人のお姉ちゃん達と一緒にいた広子ちゃんは生粋のお姉ちゃんっ子になりました。
どこへ行くにも二人のお姉ちゃんと一緒。
家で遊ぶときも二人のお姉ちゃんと一緒。
特に、大きいお姉ちゃんの桂子さんはまるで、お母さんのようによく広子ちゃんの面倒を見ていたそうです。
桂子さんは、高校生の時にはアルバイトをしていたので、よく広子ちゃんにお小遣いをあげたり、お菓子を買ってあげたりしていたそうです。
だから、広子ちゃんもよく桂子さんになついていたそうです。
洋子さんは、この頃になると、学校の友達とよく遊ぶようになり、三人で一緒にいることはあまりなくなっていたみたいです。
広子ちゃんが中学生になった時には、桂子さんは高校を卒業して働いていました。
やはり、仕事が終わった後に桂子さんはアルバイトをしていました。
帰りも遅くなったこともあり、だんだん広子ちゃんと接する時間もなくなってきたそうですが、たまの休みの日などは、広子ちゃんが桂子さんのそばを離れず、買い物などに行くときなどは「ヒロもついて行っていい?」と甘えていたそうです。
そして、大人っぽくなった桂子さんを見ては羨ましく思っていたそうです。
広子ちゃんは、小学校の4年生頃からスイミングクラブに通い始めていて仲良しのお友達も出来たようでした。
スイミングクラブではいつもその子と一緒にいたそうです。
「ねえ、広子ちゃん、今度の日曜日ウチのお母さんにクッキーの作り方を教えてもらうの。広子ちゃんも一緒に習わない?」
プールの壁に二人並んでもたれかかり、休憩していたときのことでした。
野々宮百合子ちゃんが広子ちゃんを誘ったのだそうです。
「ごめんね。お姉ちゃんと買い物に行くから。」
広子ちゃんはそう言って、本当に悪いと言うように断ったそうです。
「広子ちゃんは、本当にお姉さんと仲がいいのネ。」
そういう風に言われると、広子ちゃんはなんだかとても嬉しくなったそうです。
「ねえ、ミーニャ?お前最近よく外に行くようになったねぇ。」
広子ちゃんは、そう言って私を抱っこしてくれました。
“ニャ〜”そうなの。
ここに移ってきてもう三ヶ月経ちますからね。
何しろ、昼間は誰もいませんから私もけっこう暇つぶしであちこち探検しているんですよ。
「この前ね、新しいお家を見に行ってきたんだよ。」
“ニャ〜”えっ?そうなんですか?もう出来るのでしょうか?
まあ、どうにかこの仮住まいにも慣れてきましたけれど、やっぱり住み慣れて家がいいに決まっています。
ん?待てよ…新しいお家って今までのお家と同じなのでしょうか?
広子ちゃん、そこのところはどうなっているんでしょうか?
「新しいお家はね、三階建てなんだよ。」
えっ?それじゃあ、前のお家とはまったく違いますね?
「それでね、私の部屋のドアにはミーニャが入れるように小さなパタパタドアをつけて貰ったんだよ。」
いや、この際、パタパタドアはどうでもいいです。まあ、パタパタドアのイメージが沸かないので何とも言えませんが…
ああ、懐かしいあのお家にはもう帰れないのですね…
私が感慨にふけっていると、広子ちゃんは急に立上り、冷蔵庫から牛乳を取り出すと、1リットルの紙パックのまま飲み始めました。
「ヒロは背が小さいから牛乳を一杯飲んで大きくなるんだ!ミーニャも飲む?」
“ニャ〜”私は別に大きくなりたいわけではありませんが、牛乳は大好きなのでくださいな。」
「よしよし!」
広子ちゃんは浅い器に牛乳を入れると、足元において私が牛乳を飲み終わるまでそばにしゃがんで見ていました。
私が飲み終わると、器を流し台のシンクに置いて、居間のソファにゴロンと寝っ転がり、分厚い少女漫画の月刊誌を読み始めました。
私が広子ちゃんの背中に乗ると、「おお、ミーニャ重たいよ。」と言いながらも、動かないようにじっとしていてくれます。
ああ…広子ちゃん。
あなたはなんて優しいのでしょうか。
しかし、悲劇はすぐに訪れたのです。
“ブー”
?…
!
“ニャー”臭いです。今のはもしかして…
「ごめん、ミーニャ。おなら出ちゃった。臭かった?」
“ニャー“もう、あなたって人は…
私が広子ちゃんの背中から飛び降りると、広子ちゃんも体を起こして手で空気を振り払うように鼻をつまんで手を振っています。
「えへへ。」
本当に年頃の女の子が、誰も見ていないからといって、おならをして“えへへ”なんて、私もレディーの端くれですからちょっと信じられませんが、まあ、内緒にしておいてあげましょう。
これでも広子ちゃん、私が見る限りでは、まだ幼い顔をしていますが、二人のお姉さんに似て、なかなかの美人なんですよ。
今日は、朝から、なんだか騒がしいです。
「広子、忘れ物はないか?」
「大丈夫だよ。それより、約束ちゃんと守ってよね。」
「分かってるよ。だから頑張るんだよ。」
「任せておいて。」
台所のテーブル席でスポーツ新聞を読んでいた大輔さんも、新聞を置いて弘子ちゃんのほうを見ました。
「今日は試合なのかい?」
「うん!代表選考会なの。大ちゃんも後で見に来てくれる?」
「おお!」
「じゃあね!」
そう言うと広子ちゃんはバッグを担いで、仮住まいのマンションの部屋を出ると階段を駆け下りていきました。
おばあ様は、階段の上から、自転車にまたがってスイミングクラブへ向かう広子ちゃんを見送りました。
「広子はもう出掛けたの?」
桂子さんがあくびをしながら部屋から出てきました。
「ああ、今出て行ったよ。彩はまだ寝てるのかい?」
「うん。ところで、ヒロの出番は何時頃になるの?」
桂子さんは台所に行くと、お茶を入れながらテーブルに置かれていたプログラムに目を移しました。
それから時計を見て、つぶやきました。
「のんびりしてたら、最初のバッタに間にあわないわね。朝ごはん何かある?」
大輔さんは、新聞を手にとると、その下にあった皿を指差して言いました。
「おにぎりなら、まだいくつか余ってるよ。」
「中身は?」
「さっきヒロちゃんが食べたのが、昆布と鮭だったから、昆布が1つと、鮭が1つ、梅干が2つかな。」
「鮭はどれ?」
「そんなの食ってみなきゃ分からないよ。」
「え〜!」
そう言って、桂子さんはおにぎりを1つとって一口食べました。
「当たり!」
桂子さんは大輔さんに、食べかけのおにぎりの鮭が覗いているところを向けて、Vサインをして見せました。
「大ちゃんはもう食べたの?」
「ああ。ところでヒロちゃんは何に出るんだい?」
「バッタと二個メ。」
「にこめ?」
「そう!二百メートル個人メドレー。見に行く?」
「そうだな。さっき約束したからな。たまにはそういうところ、行ってみるか。」
ちょうど、そのとき奥の部屋から彩ちゃんの鳴き声が聞こえてきて、桂子さんは彩ちゃんを連れて来て大輔さんに預けました。
「着替えてくるからお願いね。」
「了解!」
桂子さんから彩ちゃんを受け取ると、大輔さんはミルクを作って彩ちゃんに飲ませ始めました。
“ニャー”彩ちゃんのミルク。なんだかいい匂いがして、とても美味しそう…
彩ちゃんがミルクを飲み終わると、大輔さんは彩ちゃんを抱っこして背中をポンポン叩きながらゲップをさせます。
おなかが一杯になった彩ちゃんは、たちまちウンチをしたみたいです。
異様な匂いが立ち込めてきました。
大輔さんは、これまた手馴れた手つきで彩ちゃんのオムツを変えます。
ひと仕事終えた彩ちゃんは、満面の笑みを浮かべて、まるで、遊んでくれとアピールしているようです。
大輔さんが高い高いをすると、更に声をあげて喜んでいます。
なんだかとても楽しそうです。
だけど、私も高いところが好きだけれど、体が自由にならないのはちょっとごめんです。
それに落ちると気には無意識のうちに体を回転させてしまいますから、うまく抱きとめてもらえなくなってしまうかもしれません。
そうこうしているうちに、桂子さんとおばあ様が出掛ける支度を済ませてやってきました。
おじい様は魚釣りに出掛けて、とっくに家にいません。
みんなが出掛けてしまったら、私はまた一人になってしまいますが、最近は、もう一人でいることにも慣れてしまいました。
それなりにひまをつぶす術を身に付けたと言っていいでしょう。
まあ、ほとんどの時間寝ているだけなのですが…
そして、桂子さんが車を運転するので、彩ちゃんは大輔さんが抱いたまま四人出だ欠けていきました。
“ニャー”皆さん行ってらっしゃいませ。広子ちゃんをよろしくお願いしますね。
桂子さんたちがスイミングクラブについた時には、まだ、広子ちゃんは先に泳ぐ進級試験の小学生の子達の世話をしていました。
広子ちゃんが、最初に泳ぐ百メートルバタフライまではもう少し時間があるようでした。
大輔さんは、彩ちゃんを抱っこして、あちこち歩いていました。
観戦席の入り口脇に、クラブの各種目の記録保持者の名前が書かれたボードがあるのに気がついた大輔さんは、しばらくそれを眺めていました。
すると、広子ちゃんの名前をいくつか発見しました。
小学生の50メートルバタフライと50メートル自由形はまだ広子ちゃんの名前が残っていました。
更に、中学生の部では百メートルバタフライと、二百メートル個人メドレーにも名前がありました。
「へ〜!広子ちゃんって意外にすごいんだ。」
“間もなく百メートルバタフライの選考会をはじめます。”
「おっ!始まるぞ。」
大輔さんは、そう彩ちゃんに言うと、観戦席に入っていきました。
幹線席に入ると、桂子さんたちは最前列に陣取って、入ってきた大輔さんに手を振っていました。
大輔さんも、他の参戦客たちを押しのけながら、そこのたどり着きました。
ちょうど、広子ちゃんがプールに出てきたところでした。
広子ちゃんは、一度、プールに入水してから、あがる時にみんなに気がつくと、軽く手を振ってから、笑顔で隣のコースのことなにやら話しているようでした。
「さーて、記録更新できるかねぇ。」
おばあ様がそう言って腕組みをしましました。
「それで、記録でたら何を買ってくれって言われているの?」
「CDウォークマンだと。」
「へー、けっこうするよ。財布の中身は大丈夫なの?」
「いやあ、それがねぇ、この前、パチンコで10連チャンして、景品でとったのよぉ!」
「なあ〜んだ。手回しのいいこと。」
「なんの話だい?勝ったご褒美のことかい?」
「違うわよ。勝つのは分かっているから、記録を更新したらCDウォークマンを勝ってくれだって。ちゃっかりしているわよ。」
「そうか。広子ちゃんってすごいんだね。さっき、そこで見たけど、小学生の時の記録がまだ残っているんだね。」
「そうなのよ。どういう訳か、あの子ったら、あんなにのんびりしているのに、水泳だけは人が変わったように練習していたもの。」
「さあ、始まるわよ。」
ウエイトレスが、トレーに水とお絞りを載せてテーブルに運んできました。
桂子さんと広子ちゃんは、まだメニューを眺めながら、悩んでいるようです。
「お決まりになりましたら、ボタンを押してお知らせください。」
ウエイトレスは、メニューから目を離さない二人のほうを交互にチラッと見て、お決まりのせりふをいうと、軽くお辞儀をして下がっていきました。
「まったくお前達の優柔不断はいつまでたっても治らないねえ。」
「いいでしょう!みんな食べたいんだから。」
「まあ、ゆっくり選べばいいさ。それより、広子ちゃん、今日はすごかったねえ。」
「へへ、自信あったんだ。練習では非公式だけど、もっといい記録でたんだよ。」
「でも、この世界じゃあ、100分の1秒を争うんだろう?それが一気に2秒も縮めるなんてすごいじゃない。」
「2秒といっても、元々の記録がたいしたことなかったからね。世間にはもっと早い選手がいっぱいいるのよ。本当はこんなタイムんか、全国大会に出てくる選手なら寝ていても出せるわよ。」
「でも、これで全国にいけるんだよ。標準記録は上回ってるんだから!」
広子ちゃんは、百メートルバタフライでは1秒2、二百メートル個人メドレーでは2秒1タイムを更新して、どちらもクラブ認定の標準記録を上回り、メドレーリレーとあわせて三種目で系列クラブの全国大会に出場することになったのです。
「いや〜あ、それにしてもすごいよ。今まで、そういう存在が身近にいたことがないから、ちょっと興奮するね。」
「あ〜ら、なに言ってるのよぉ。あなたの奥さんだって全国に行ってるのよ。」
「えっ?そうなの?何で?」
「そろばん!」
「えっ?」
「そ・ろ・ば・ん!」
「そろばん?そいつはまたずいぶん地味だねぇ。」
「地味で悪かったわねぇ。それでも全国は全国よ。32位だったけど。」
恵子さんも小学校の頃からスイミングスクールに通っていました。
そこそこの記録は出ていましたが、どちらかというと、楽しく泳いでいられたらそれでいいという感じでした。
それよりも、学校の授業で習ったのをきっかけに、はじめたそろばんは見る見るうちに上達して、塾の先生より暗算が早く解けるようになったのだそうです。
「よしっ!和風ハンバーグにするわ。」
「私も。」
ようやく桂子さんがオーダーするものを決めると、広子ちゃんはあっさり、桂子さんと同じもにしてしまいました。
そんな広子ちゃんを見て大輔さんは思わず吹き出してしまいました。
「広子ちゃんは何でもお姉ちゃんと同じなんだね。」
「そんなことないよぉ!」
広子ちゃんは否定しましたが、それがまたおかしくて大輔さんはつい、顔がほころんでしまいました。
メニューが決まったのでテーブルに置かれているベルを押してウエイトレスを呼んで、それぞれ注文しました。
「ちなみに、洋子も水泳では、中学の時に都大会で5位入賞してるんだよ。」
「すごいなあ!竹下家って、すごい血統書つきの家柄なんだね。」
「そんな、血統書つきだなんて、ペットみたいに言わないでよ。それに、血筋は関係ないのよ。」
「そうだねぇ。私やじい様はせいぜい社交ダンスをやってたくらいで、運動も勉強もテンでダメだったからねぇ。」
「そうなんだ。」
頼むものを頼んだら、広子ちゃんはご褒美にもらったCDウォークマンを手にとって操作方法を書いた説明書を熱心に呼んでいます。
そして、CDを入れるとイアホンを耳にねじ込んで再生ボタンを押しました。
「へ〜ぇ、CD持って来てたんだ。」
「うん。自身あったからね。」
「でも、すぐもらえるとは限らないだろう?」
「パチンコでとったの知ってたもん。玉子さんが教えてくれた。」
「抜け目がないんだね。」
「そうよ。末っ子って油断してると、なんでもお下がりだし、都合のいい用に誤魔化されるからけっこうしたたかなのよ。」
「ふ〜ん。そんなもんかねえ…」
かくして、広子ちゃんの全国デビューがここに決定したのでした。
全国大会の出場が決まってからも、広子ちゃんは相変わらずです。
家にいるときは、いつも寝っ転がって漫画の本を読んでいます。
平気でおならもするし、鼻くそもほじります。
お友達と言えば、野々宮百合子ちゃんくらいで、これも、二人でどこかに遊びに行くといったことはなく、もっぱら、プールにいるときだけの仲良しさん。
桂子さんが家にいると、いつも桂子さんにくっついて歩いています。
テレビのアイドルや、ボーイフレンドの話なんてまったくしないし、興味があるようなそぶりすらないのです。
こんなに可愛らしい女の子を、世間の男どもはどうして放っておくのでしょうか?
まさか、広子ちゃん、学校やプールにいるときとかも、おならしたり、鼻くそほじったりしてないよねぇ?
ちょっと想像したくないですけど。
最近桂子さんは、彩ちゃんのお世話で忙しそうだし、今、いちばん私のご主人様にふさわしい人は広子ちゃん、あなたなのかなあなんて思っているんですけど…