えっ?引っ越しって…
7.えっ?引越しって…
この日の午後、おじい様はいつものように、一仕事を終えて、部屋でゆっくりしていました。
ちょっと早いけど、お風呂にはいることにしたようです。
おふろ場に行って、浴槽のフタを開けて、手を突っ込み、湯加減を確かめています。
「いい湯だ!」
おじい様は一旦部屋に戻り、服を脱いでパンツだけの姿になってお風呂へ向かいました。
私にとってはおじい様のこの行動も理解できません。
お風呂にはいるのですから、着替えを取りに行ったのなら分かりますが、服を脱ぎに部屋に戻る意味が分かりません。
お風呂場に戻ってきたおじい様の手には着替えも何も持っていないのですから。
まあ、そんなことはどうでもいいです。
この後、私にとっては人生…イヤ、猫生を左右する重大な出来事の原因が発生しようとしているのです。
仕事場ではおばあ様と、玉子さんが機械を動かしていました。
珍しく桂子さんも仕事場にいて世間話をしていました。
すると、玉子さんが動かしている機械の上から水滴がポツリ、ポツリと落ちてきたのです。
最初誰も気が付きませんでしたが、そのうち、水滴どころではなくなってきたので、玉子さんはすぐに機械を止めて、おばあ様に大声で声を掛けました。
「綾ちゃん、雨漏りしてるよ!」
そう叫びながら、ビニールのシートをかけ始めました。
「雨漏りって、雨なんか降ってないよ。」
おばあ様と、桂子さんがそう答えて玉子さんの方を振り向くと、玉子さんの機会の上に、滝のように水が落ちてきていました。
「たいへん!」
おばあ様も自分が動かしている機械を止めて、ビニールを掛けるのを手助けしました。
「この上って…お風呂場だ!」
桂子さんはそう言うと、一目散に二階へ上がっていきました。
真っ直ぐにお風呂場へ直行すると、おじい様がお風呂に入っていました。
「じいっ!水止めて!下に漏ってるよ。」
「なんだって?」
「お風呂に水が仕事場に漏ってるの!」
おじい様は慌てて、蛇口をひねって、お湯を止めました。
桂子さんはすぐに業者に電話して、見に来て貰いました。
原因は排水管が破損しているとのことでした。
つまり、浴槽にためたお湯は流せないということです。
更に深刻だったのは、2階の床の骨組みになっている材木が腐りかけているというのです。
いつ床が抜けてもおかしくない状態だと診断されてしまいました。
知らぬが仏だとか、青天の霹靂とはまさにこのことです。
万が一に備えて、桂子さん達は急きょ近くのアパートを一部屋借りて、生活場所を移しました。
ところが、そこで猫は飼えないということだったので、私は置き去りにされてしまいました。
仕事をしているときは、家にいるので、私のご飯やトイレの掃除はきちんとしてもらえるのですが、夜は誰もいない家にひとりぼっちになってしまうのです。
眠ってしまえばあっという間に朝になってしまうのですが、なんだか落ち着きません。
夜はいつも静かで、何も変わらないはずなのですが、人がいるのといないのとでは、こんなに違うものなのかと、思い知りました。
早く、直して欲しいです。
一月ほど、こんな生活が続いた頃、家の中が急に騒がしくなりました。
みんなが急に帰ってきて、荷物をまとめ始めたのです。
ま、まさかこの家に見切りをつけて引っ越してしまうのですか?
私の心配は半は分当たっていました。
この家に見切りをつけたわけではありませんが、どうやら、引っ越すことになったみたいです。
家もかなり古くなったし、家族も増えるということで、建て替えることにしたのだそうです。
建築の仕事をしている大輔さんが、大まかなプランをつくって、工務店の設計担当が詳細を加えていき、見積もりをしてもらったところ、4千5百万ほどかかると言うことでした。
これには、仕事場の機械を移設する費用も含まれているということだったので、その金額でお願いすることにしたそうです。
建て替えをお願いした公務店さんは、立替の間の仮住まいと、仕事場のスペースを無料で提供していただけるシステムになっているということで、そちらにおじゃますることになったのだそうです。
そこはペットもOKだということで、私も連れていってもらえることになりました。
私が初めてそこのマンションに行ってみると、そこは2DKのマンションで、桂子さん達と同じ様に立替をして貰っている人たちが5家族住んでいました。
2DKでは、おじい様におばあ様、桂子さん夫婦に彩ちゃん、年頃の広子ちゃんが一緒に住むのには狭すぎます。
そこで桂子さん達は埼玉にある大輔さんの会社の社宅に入ることにしたみたいです。
入るというより、結婚当時は社宅で暮らしていましたが、彩ちゃんがお腹の中に出現したときから桂子さんは実家に帰っていて、大輔さんもつい、つい、一緒に暮らしていたので、正式に社宅を引き払ったわけではなかったため、身体だけ戻れば良かったのもそう決めた一因だったようです。
そうと決まったら、すべてがあっという間に進んでいきました。
まずは、今まで住んでいた家の荷物を必要最小限だけ仮住まいのほうに移し、残りは工務店さんの倉庫に保管してもらいました。
引越しのトラックは、大輔さんの仕事の取引先に頼んだら、運転手つきで出してくれたそうです。
大輔さんたちは、荷物が、元々社宅にすべてあるので引越しが終わると、みんなで食事をして、その足で、電車に乗り埼玉へ行ってしまいました。
かくして、桂子さんと別々の生活が始まってしまったのです。
ああ…桂子さんの心地よい膝の上ともしばしなお別れとなってしまいました。
ところで、新しい家って、いったい、どれくらいで出来るのでしょうか…
新しい住まい(仮住まい)に移って1週間。
桂子さんと離ればなれになって1週間。
私は、どうも、この新しい住まいには馴染むことが出来ません。
ちょっと外へ出ると、知らない人がいっぱいで油断できません。
心の休まる時間がないのです。
ああ…桂子さんの膝の上が懐かしい。
今にしてみれば、小憎たらしい彩ちゃんでさえ、恋しく感じられます。
桂子さんとお別れして2週間。
古い家の解体工事が終わって、新しい家を建てるための地鎮祭が執り行われることになりました。
私はこの日がとても待ち遠しかったのです。
この日には、きっと桂子さんたちも帰ってくるに違いないと思ったからです。
思ったとおり、地鎮祭が執り行われる日の前日に、桂子さんは彩ちゃんを連れて帰ってきてくれました。
大輔さんは仕事が終わったら直接来ることになっているそうです。
「ただいま〜!」
「おかえり〜!」
桂子さんが玄関の扉を開けて声を掛けると、広子ちゃんが奥の部屋から顔を出したかと思うと、一目散に玄関まで行き、桂子さんの背中におんぶされている彩ちゃんの頬っぺたを両手で撫で撫でしながら声を掛けました。
「たくみ〜ぃ!しばらく見ない間にずいぶん大きくなったねえ!」
それから、ドアの外のほうを覗くと、「あれっ?大ちゃんは一緒じゃないの?」そう言ってキョロキョロしています。
「そう。仕事から直接来るって。それよりミーニャは生きてる?環境が変わってノイローゼとかになってない?」
桂子さんは、部屋に上がると、彩ちゃんを背中から降ろしながら、そう尋ねて私を探しているようでした。
さすが桂子さん!分かってらっしゃる!桂子さんの心配しているとおり、私はもうノイローゼの一歩手前まで来ているのですよ。
久しぶりの桂子さんの膝の上を目指して、私は一気に押入を飛び出しました。
座卓のそばに座ってお茶を入れている桂子さんのそばまで行くと、思いっきり甘えた声で“ニャ〜”と鳴いてスリスリしてみました。
すると桂子さんは、私を抱き上げてくれました。
「ミーニャ!久しぶりだね。元気にしてた?」
そう言って、私の鼻にキスをしてくれました。
嬉しいです。
桂子さんにキスをして貰ったのは、本当に久しぶりです。
そして桂子さんは、私を膝の上に抱きかかえてくれました。
やった!
やっぱり桂子さんの膝の上は居心地がいい…
身も心もとろけてしまいそうで、なんだか怖いくらいです。
このまま時間が止まってしまえばいいのに…
静寂をうち破ったのはおばあ様でした。
帰ってくるなり玄関のドアを思いっきり開けて、そのまま勢いに任せてドアを閉めたものだから、バタンと、大きな音がしたのです。
「おお!桂子、帰ってたかい?大ちゃんも帰ってくるだろう?」
「うん。今、電話があった。もう駅に着いたって。」
「そうかい。ちょうど良かった。明日はお祝いだから、みんなでお寿司でも食べに行くか。」
「え〜?お寿司じゃ、私食べられないわよ。」
桂子さんはお刺身類が食べられないのです。
「お寿司より焼き肉の方がいいなあ。」
「うん!焼き肉の方がいいよ!お寿司っていっても、どうせ廻るヤツでしょう?」
広子ちゃんも焼き肉に賛成したので、おばあ様はちょっと考えましたが、結局、焼き肉に決めたみたいです。
「じゃあ、じい様に言ってくるよ。廻るお寿司なら行かないって言ったけど、お肉なら行くって言うかもしれないから。」
そう言っておばあ様は、おじい様が釣り道具屋に出掛けようとしているのを引き止め、一旦家に連れ帰りました。
すると、間もなく大輔さんも帰ってきたので、みんなで行きつけの焼き肉やさんに出掛けていきました。
「じゃあ、ミーニャ、行ってくるよ。お土産買ってくるからね!」
そう言って、みんないなくなりました。
どうせお土産を買ってきてくれるのなら、廻るヤツでも何でもいいですから、私はお寿司の方が良かったです。
地鎮祭が執り行われたのは金曜日だったので、大輔さんはそのまま仕事に直行したそうです。
大輔さんは作業着を着ていたので、地鎮祭の時に公務店の若い社員に業者の人と間違われたみたいで、テント張りなどを手伝わされたりしていたそうです。
大輔さんも、同業者ということもあり、調子に乗って手を貸していたそうですが、それに気付いた専務さんがすぐにとんできて、その若い社員の頭を小突いたそうです。
「お前は施主に何をさせているんだ!」
「えっ?」
若い社員は、さすがに驚いた様子でした。
「まあ、まあ、専務さんボクもイベントごとは大好きなもんですから。それに、この格好じゃ仕方ないですよ。」
「いえ、いえ、いくら作業着を着ているとはいえ、一部上場会社の方がうちの下請の訳がないんですから。」
大輔さんの勤めているリフォーム会社は一部上場会社の関連会社なので、作業着には親会社と同じロゴが入っているのです。
それを見た、若い社員は改めて、驚き、謝っていましたが、大輔さんは笑って許してあげたそうです。
地鎮祭が終わると、桂子さんと彩ちゃんはそのまま家に戻ってきました。
土曜日まで泊まって、日曜に埼玉へ帰ることにしたとかで、私にしてみれば嬉しい限りです。
仮住まいのマンションは、2DKで6帖の和室と4帖半の洋間に8帖ほどのダイニングキッチンがあります。
普段は、6帖の和室におじい様とおばあ様が、4帖半の洋間に広子ちゃんが寝泊まりしています。
桂子さん達がお泊まりすると言うことで、大輔さんはダイニングでもいいといったのですが、おばあ様が、広子ちゃんの部屋で寝て、桂子さん達に6畳の部屋を空けてくれました。
夜中に釣りに出掛けるおじい様が、ダイニングで寝ることになりました。
「なんか、悪いですよ。」
大輔さんは、とても恐縮していましたが、おばあ様は平気な顔をして言い放ちました。
「いいのよ。じい様はどうせ、夜中に出て行くんだから。こんなの気にしないでゆっくりしていきな。」
こんなのといわれたおじい様は、既に、布団にくるまって、口を開けたまま、いびきをかいていました。
翌朝、大輔さんが起きたときにはおじい様は既にいませんでした。
ジャーのふたを開けると、ご飯が茶碗で5杯分くらい残っていました。
冷蔵庫を覗くと、すぐに目を引いたのが高菜漬けでした。
大輔さんは、この高菜漬けをみじん切りにして、ご飯の半分を使って高菜チャーハンを作りました。
残りの半分は、五目チャーハンにして、ジャーに戻し、保温しておくことにしました。
私は大輔さんに朝ご飯の催促をしてみました。
すると大輔さんは、私の器を手に取ると、流しできれいに洗ってくれました。
それから、新鮮な水を入れておいてくれました。
次に、五目チャーハンの材料に使った竹輪と蒲鉾を細かく切って出してくれました。
大輔さん!こういう風にして出してくれると私はとても食べやすいです。
ありがとうございます。
桂子さんがどうしてあなたと結婚したのか分かってきたような気がしますよ。
「なんかいい匂い。」
桂子さんも起きてきました。
「わ〜あ!美味しそう。」
「彩はまだ寝てるのか?」
「うん!ね〜ぇ?今日、遊んできていい?彩見ててくれる?」
「1時間千円!」
「えーっ!それは高いよ。」
「冗談だよ。いいよ。行って来な。」
「やった〜!どっち食べようかな…」
そう言って桂子さんは、高菜チャーハンにするか、五目チャーハンにするか悩んでいました。
「あら、いいこと!私の分もあるかしら?」
続いておばあ様も起きてきて、二人で朝からとてもウキウキしています。
私は、既にお腹いっぱいです。
この頃の彩ちゃんは、俗に言う、ヨチヨチ歩きが出来るようになっていました。
だからといって、まだまだ私を捕まえようなんて愚かなことですが。
桂子さんとおばあ様が出掛けたあと、大輔さんはスポーツ新聞の競馬欄をずっと見ているようです。
実は大輔さん、競馬がとても好きみたいです。
明日、G1(グレード1)の大きなレースがあるみたいです。
彩ちゃんは一人で積み木で遊んでいます。
なんだかいい子っぽいですよ。
「あっ、大ちゃん今日買いに行くの?」
「おお、広子ちゃんおはよう!」
広子ちゃんはまだ、高校生ですから、パチンコにいけないので学校が休みの土日は朝もゆっくりです。
「ねえ、ちょっと見せて。」
広子ちゃんは大輔さんが見ていた競馬新聞を手に取ると、メモ用紙に数字を書き始めました。
「これ、買って?」
広子ちゃんは、そう言ってメモを渡すと、財布から五百円玉を1枚取り出しました。
「いいよ。」
メモの数字を確認した大輔さんは、「相変わらずだね。」
そう言って笑顔で五百円玉を受け取りました。
「うん!当たったら何か買ってあげるよ。」
「本当?そいつは楽しみだ。でも広子ちゃんが当たったら俺のははずれってことだからなあ…」
そう言って大輔さんは、自分が買う組み合わせをメモすると、彩ちゃんを抱き上げました。
「じゃあ、ちょっと行ってくるね。朝ご飯食べるなら、一応、ジャーにチャーハン入ってるけど、お昼はどうする?」
「うーん…おそば食べたいなあ。」
「了解!じゃあ、帰ってきたら食べに行こう。」
そして、広子ちゃんだけになってしまいました。
まあ、いつもそうなのですけれど、せっかく桂子さんが来ているのに、パチンコに行ってしまうなんて…
私より、軍艦マーチのほうが癒されるのでしょうか…
広子ちゃんは、ずっと漫画の本を読みながら、たまに声を出して笑っています。
いきなり笑われると、けっこう、ビックリするものですが、私くらいになると、もう、それくらいのことで動じることはありません。
お昼頃になったら、電話がかかってきました。
おばあ様からのようでした。
「もしもし?…うん広子。…いい。大ちゃんとおそば食べに行くから。…分かった。」
広子ちゃんが電話を切ると、大輔さんが場外馬券場から帰ってきました。
「広子ちゃ〜ん、飯食いに行こう!」
そして、誰もいなくなってしまいました。
久しぶりに桂子さんに会えたのに、居心地のいい膝の上に置いて貰ったのはたったの1回だけ…
早くまたみんなで一緒に暮らせるようになればいいのに!
あとどれだけたったら新しいお家は出来るのでしょうか…